カルダーノ知性論論駁 Scaliger, Exotericae Exercitationes, ex. 307, sec. 6

  • Julius Caesar Scaliger, Exotericae Exercitationes (Paris, 1557), 393r-v (ex. 307, sec. 6).

 カルダーノは知性についていくつかの見解を述べている。まず彼によれば、知性とは知性によって認識されるものと等しい。よって「私が馬を知るとき私の知性は馬の形相になる」。また私の知性は、私が書いたものに等しい。よって「これを二千年後に読むものは私の知性を見て、私の知性を理解することになろう」。よって書いたものが残る限り私の知性も残る。よって私の知性は永遠である。

 カルダーノの見解はいくつもの点で不合理である。まず彼は知性が実体(substantia)であることを否定し、それを付帯性におとしめているようにみえる。というのも彼の見解によれば、人が何かを知ることによりその人のうちに現れるものが知性となるからだ。これは付帯性のあり方である。

 知性が知られるものと同じものになるというカルダーノの見解も誤りである。たしかにアリストテレスは知性はなんにでもなりうると書いている。しかし彼は知性がその本質からして認知されるものと同じものになると言わんとしているのではない。むしろ知性は第一質料のように、すべての認識の基礎(基体)として機能するといいたいのだ。知性という基礎が認識されるものの形象(species)を受けいれることで、認識が生じるというわけだ。しかもカルダーノの見解は明らかな不合理をもたらす。知性というのは人間の形相である。もし知性が馬の認識することにより、馬の形相になるとすると、人間の形相が馬の形相になることになる。すると馬を認識すると人間が馬になってしまうだろう。これは馬鹿げている。