不可知のエンテレケイアと霊魂の死刑執行人 Scaliger, Exotericae Exercitationes, ex. 307, sec. 12

  • Julius Caesar Scaliger, Exotericae Exercitationes (Paris, 1557), 393r-v (ex. 307, sec. 12), 396v-397r.

 アリストテレスは先人による霊魂の定義を批判して、彼独自の定義を導入した。この定義を批判する者たちがおり、カルダーノもその一人である。カルダーノによれば、霊魂はエンテレケイア(完全現実態)であるというアリストテレスの定義は理解不能である。しかし自分が理解できないからといっても、他の人もアリストテレスの定義が理解できなくて当然などと考えるべきではない。実際『自然学』第2巻を読めば、エンテレケイアという語彙を理解するために知っておくべき術語は解説されている。エイドスとはなにか。モルフェーとはなにか。ロゴスとはなにか。ト・ティ・エン・エイナイはなにかといったことだ。

 もちろん事物の定義を私たちが認識できないということは私もわきまえている。たとえば霊魂とは身体を完成させる実体形相だと私が言うとしよう。すると、形相とはなんだと聞かれるだろう。それでは問おう。あなたが毎日みている石の形相とはなんなのか。わからないだろう。およそ形相を私たちが明確に理解することはないのだ。私たちが知るのは、形相がもたらす効果だけである。実体形相の形象が知性のうちに受容されることは決してないのだ。

 形相ということで私たちが理解しているのは、それが非物質的であり、単純であり、力を有し、完成であり、事物を形相づけるもの(informatio)だということである。エンテレケイアのエンは、全身に行き渡っているということである。テロスというのは月下にあっては最高の形相であり、目的にして完成であるということである。エケイン(ケイア)とは、なにかを成し遂げる力をもっているということである。これによりエンテレケイアとしての霊魂はある事物におけるすべての活動や運動(時には互いに対立する運動)を引きおこす。

 「ここから、真理に与るよりもアレクサンドロスの追随者となることを選んだ者たちの、頑迷さよりくる無知な妄想を破壊することができる。もしこれら霊魂の死刑執行人たちがおろかにも言い立てているように、[人間の]形相が元素の形相から生じるのなら、元素の形相は十全な状態にあるときよりも、破壊された状態にあるほうがいっそう大きなことをなしうるということになろう。だがもし彼らが元素の形相が複合体の内部で十全な状態で保たれていると考えるなら、それらの形相とは異なる何らかの力が存在し、この力が一定の目的に向けて混合されており、また一定の境界によって区分されていなければならない。なぜならそれら現実態において存在するものからは、それ自体で一なるものは生じないからである。より上位にある力からしかそれは生じないのだ。それゆえこの上位の力をアリストテレスは[『霊魂論』の]第1巻の最初で「生命の初め」と呼んだのだ」(Unde inscita pertinaciae deliramenta destruas eorum, qui se Alexandri sectatores esse malunt, quam principes veritatis. Si enim, ut illa belluae carnifices animarum temere ligitant, conflaretur ex elementorum formis: ipsae formae elementorum corruptae plus possent, quam integrae. Quod si integrae ab istis intus in compositio servantur, necesse est aliqua potentia ab eis diversa, et misceri certos ad fines, et certis finibus contineri. Non enim ex illis actu existentibus, fieri potest unum per se, nisi a potestate superiore. Quare initio statim primi, ἀρχὴν τῶν ζῴων appelavit)