獲得知性論の誤り Scaliger, Exotericae Exercitationes, ex. 307, sec. 19

  • Julius Caesar Scaliger, Exotericae Exercitationes (Paris, 1557), 403r-v (ex. 307, sec. 19).

 ここまでの議論から、賢者たちが至福状態(beatitudo)と獲得知性(intellectus adeptus)についていかにくだらないことを論じているかがわかる。彼らによれば、質料知性が能動知性と結合すると、永遠にして不滅なる獲得知性と呼ばれる状態になる。それが獲得知性と呼ばれるのは、至福状態となるためにもはやほかのなにものをも必要としないからである(必要なものは獲得してしまっている)。

 だが質料知性は能動知性と結合する前は永遠ではなかったのではないか。もし以前に永遠でなかったならば、結合によって永遠となることはない。本性的に永遠でないものが、なにか別のものと結合して不滅のものとなるということはないからである。また不滅な能動知性と可滅的な質料知性の結合から、なにか永遠のものが生まれることもない。

 たしかにアリストテレスは「外から」知性はくるといっている。そしてその知性は死ぬことがないとも言っている。だがこれは能動知性と結合する前の知性のことをいっているのである。この場合、至福状態というのは能動知性との結合ではなく、万物を認識した状態のことである。質料知性が持つ可能性のすべてがみたされたことによって、それは現実態においてすべてを知る状態となり、これが至福状態と言われるのである。

 よってカルダーノアレクサンドロスの書物から、彼の『霊魂の不滅性について』へと持ち込んだ理論は、あるべき哲学のすがたから大幅に乖離している。この理論によると質料知性とは霊魂のうちにある、ある種の準備状態(praeparatio)だという。この準備状態はあらゆる種類の可知的形象を受容するに適している。もし準備状態であるならば、それは付帯性である。そしてもし質料知性が霊魂のうちの準備状態であるならば、アレクサンドロスにとって質料知性は可滅的なものとなり、能動知性と結合しても永遠のものはならないだろう。「実際、カエサルの知性が、能動知性との結合後に、どうやって永遠となるというのだろうか。カエサルが死んだあとには、当該の質料知性は誰かある別の人の知性となり、能動知性は[結合していた知性のことを]忘却してしまうというのに」。もしこのような形で永遠が生じるとするならば、霊魂の準備状態という可滅的なものと、受けいれた者が死んだあとには受けいれた者のことをすべて忘却してしまうような永遠なる能動知性の結合から、永遠が生じることになる。これは不合理である。よって彼らの能動知性との結合によって至福状態がもたらされるという見解も、至福状態を受けいれる基体を付帯性にしてしまうような霊魂理解も受けいれるべきではない。

 さらにアレクサンドロスは次のような怪物のごとき説を唱えている。人間の霊魂は可死的なものであり、元素の質、あるいは可滅的な形相の組み合わせからなりたっている。知性とはこのような霊魂が有する力であり、質の一種である。テミスティオスはある場所では霊魂は可死的だといい、別の場所では不滅だとしている。彼によれば知性とは、天球にとりついている知性のようなものであり、すなわち人間の形象である。これがいわゆる獲得によって完成されるのだ。

 アレクサンドロスはまたその知性に関する書物のなかで、知性とは外から到来するものであり、それは神であるというたわごとを披露している。それではまるで神が知性をつくったときに、それ自体で知性認識ができるようにはつくることができず、つねに監督者として知性をアシストし続けなければならなくなったというようなものである。

 というわけで、カルダーノは以下のような見解もまたアリストテレスに帰すべきではない。すなわちカルダーノは『霊魂の不滅性』のなかで、知性はいちど身体からでていき、また身体にもどるという学説をアリストテレスの主張として提示し、それを支持しているのである。もしカエサルが死んだあとに、その知性がすぐに別の身体にはいらないとすれば、新たな身体にはいるまでのあいだ知性は惨めにさまよい続けることになってしまうだろう。