アレクサンドロスとカルダーノの誤謬 Scaliger, Exotericae Exercitationes, ex. 307, sec. 7

  • Julius Caesar Scaliger, Exotericae Exercitationes (Paris, 1557), 393r-v (ex. 307, sec. 7).

 普遍は個物のうちにあり、普遍から可知的な形象が現れる。だがより正確にいえば、この形象をつくりだすのは知性である。まず感覚は決して実体を受容しない。付帯性を受容する。こうして受容された付帯性がまず形象を知性のうちにつくりだす。この形象のうちには、場所、時間、量といった付帯性が含まれている。知性がこれらの付帯性を己の働きによって取りのぞいて残ることになるのが、普遍的な実体の形象である。

 だが感覚のうちにはない実体の形象はいかにして知性のうちに入ってくるのか。それは形象をつくりだす唯一の知性から来ているのだろうか。この知性は形象をつくりだすがゆえに能動知性と呼ばれる。さらにこの知性によってつくりだされた形象を受けとる別の知性があるとすべきだろうか。これについては後に詳細に論じよう。

 これと関連して、アフロディシアスのアレクサンドロスは『形而上学注解』の第12巻(テキスト36)で次のように言っている。「質料的な形相というのは可能態として可知的なものである。だがそれを質料から抽象する知性によって、質料的な形相は可知的なものとなるのである。したがってそれらの形相は認識されると、現実態において可知的なものとなるばかりでなく、知性自体となるのだ。それは感覚されて現実態において可感的なものとなったものが、感覚自体となるのと同じである。というのも事物の形相を受けいれた知性は、現実態において知性となるのだから」。

 このアレクサンドロスの間違いこそが、カルダーノの誤りの淵源である。アレクサンドロスのように考えてしまったからこそ、カルダーノは知性が認識によりはじめて現れるという見解にいたってしまったのだ。なぜアレクサンドロスの見解は間違いなのか。それは現実態において知性認識していることと、現実態において知性であることは別の事態であるからだ。知性とは身体の現実態なのだから、知性認識しているときにしか現実態にならないとは考えられない。よって知性は知性認識によって現実態としての知性になるのではない。むしろ知性としてのあり方が認識により変化するだけである。