アヴェロエスと単一の精神 Schegk, De plastica seminis facultate, bk. 3, #2

  • Jacob Schegk, De plastica seminis facultate libri tres (Strasbourg: Bernard Jobin, 1580), sigs. G5r–G6r.

 霊魂分生説と原罪の問題についてこれ以上は哲学の素養のある神学者にまかせるとして[ただあとで原罪の問題は再度あらわれる]、シェキウスはふたたび人間霊魂の性質へと議論をもどす。この主題について神学者と哲学者が一致しているところによれば、霊魂は身体から分離可能であり、不滅である。なぜならそれは精神を備えているからである。この霊魂不滅はプラトンアリストテレスが証明している。ただアリストテレスの論述が短すぎ、また不明瞭であるために誤った解釈も生まれている。それはアヴェロエスの解釈であり、すべての人間に共通の一つの能動知性があるというものだ。この学説によれば能動知性のみが不死であり、人間の個別的な霊魂は可死的なものであるという。この見解にはアレクサンドロス、テミスティオス、その他の人々もしたがっている。この誤りにたいしては、霊魂の不死性は宗教からだけではなく、哲学的議論によっても論証可能だと考えねばならない。

 まず人間はその全体が自然的な原因によって生成されるわけではない。身体は自然の作品であるが、霊魂は外から身体に入ってくるものである。この点についてはアリストテレスプラトンも同意見である。ただし彼らは霊魂は創造されることはないものと考えているのにたいし、キリスト教の信仰は霊魂は神によって創造されて身体に注ぎこまれると教える。『ティマイオス』では神の命令を受けた下位の神々が、枷である肉体に霊魂を結びつけたとされる。この枷が消滅すると霊魂は元来もっていた完全性をとりもどす。それは消滅しはしない。アリストテレスはまた人間霊魂をヌース、すなわち精神とよんでいる。これにより霊魂のうちでも最重要の要素を指しているのである。

 同じようにアヴェロエスも考えたものの、彼は精神の本質は外から来ると考えた。一方人間の霊魂は自然的な原因にしたがって生成消滅することになる。このことを彼は光(lumen)と目の関係と類比的に説明した。光が照らすことにより目がみるように、精神(Mens; 大文字)である能動知性が照らすことで人間霊魂は認識を行う。このとき目の本質の定義に光がかかわらないように、霊魂の実体の一部として精神を考えることはできない。この類比からアヴェロエスはすべての人間にとって一つの精神があると考えた。人間精神はというと、知解可能な事物の形象を受け入れることができる可能態のうちにあるものとされる。

 このようなアヴェロエス説への反論にシェキウスはすすんでいく。