霊魂の創造と原罪の伝達 Schegk, De plastica seminis facultate, bk. 3, #1

  • Jacob Schegk, De plastica seminis facultate libri tres (Strasbourg: Bernard Jobin, 1580), sigs. G3v–G5r.

 著作の原稿を提出したので、続く発表と論文執筆のための読書を開始する。題材はヤーコプ・シェキウス(1511–1587)が1580年に出版した『種子の形成力についての三書』である。本書についてはすでに第1巻がヒロ・ヒライによって詳細に分析されている。

 さしあたっての私の狙いは、第3巻で行われているスカリゲル批判を出発点に、シェキウスの霊魂と知性に関する議論の構造と、その前提を探ることである。どのような分析結果がえられるかはまだ未定であるものの、おそらくシェキウスが精神(mens)という術語にこめた意味とその狙いに議論は収斂していくと予想している。なおこの概念の重要性はすでにクスカワによっても指摘されている。

 第三巻の冒頭でシェキウスは、人間の形相であるところの霊魂が、質料の可能態からひきだされるかいなかを問う。シェキウスによれば、確かに人間の霊魂は質料としての身体の現実態ではある。だからといって身体とともに生成されて、質料の可能態からひきだされるわけではない。それは神によって創造されて、身体へとはいってくる。特定の形相は特定の状態の質料としか結合できないのは事実である。この意味でそのような質料は、その形相にとってconsubstantialな混合状態(consubstantialis crasis)にあるといえる。しかしその質料は同時に付帯的なものでもある。なぜならそれと結合する形相は、たとえ質料がなくても存在しうるからである。[ここで質料と形相の結合を可能にするものがなんらかの「外部の原因 externa causa」であるとされている。これは具体的にはなにを指すのだろうか]

 以上の意味で人間は中間的存在である。それは永続する天体や非物質的な存在者(e.g., 天使)と、つねに生成消滅をくりかえす月下の自然物の中間にあるのだ。それは霊魂に関しては創造主の作品であるといえるし、身体に関しては自然の作品ということで被造物の作品であるといえる。だがこの中間的性質が対立の火種にもなった。

別の箇所で論じたように、この曖昧さから次のような事態が生まれた。ある人々は人間霊魂は継承から生じると考え、別の人々は継承から生じるということを否定したのである。継承から生じるというのはすなわち、人間霊魂は物体であるのだから、自然によって増殖するということである。それゆえ人間霊魂もまた自然の作品であると、彼らは考えた。(Ambiguistas haec (ut alias diximus) in causa fuit, ut quidem arbitrati sint animam humanam, ex traduce, alii vero negarent ex traduce, id est, a natura propagari, quia videlicet corpus, ob id animam quoque opus naturae censuerunt esse.)sig. G4v

 シェキウスによればここにあらわれている霊魂が増殖する(propagare)という説は誤りである。たしかに霊魂は身体とともに存在するようになるものの、身体の消滅とともに消滅してしまうことはない。それは身体から分離可能であり、その点で他のすべての自然物の形相とは異なる。というのも、人間の霊魂というのは精神を備えており、その精神によって完全なものとされているからで(perficitur)、この精神というのは神的な存在者のひとつと考えられ、自然によって増殖させられることはないのである。

 たしかに人間の霊魂というのは不完全なものであるが、これは神に由来するのではない。そうではなく、アダムが犯した原罪からくるのであり、これが原罪まで伝達されてきているのである。[以下は意味が取りにくいものの(下記引用参照)、次のような主張が念頭に置かれていると思われる。霊魂の分生説(traducianism)をとる人々があげた根拠の一つには、霊魂が親から子へと伝達されるとすると、原罪の伝達が説明できるということであった。逆に霊魂が神によってつくられるとすると、神が罪の創造者ということになってしまう。これにたいしてシェキウスは、原罪のそもそもの原因は神にはないのだから、それを神が個々の霊魂に伝達しても問題はないと考える。また分生説を避け創造説の立場から原罪を説明しようとする者のなかには、霊魂ではなく身体のほうに人間を罪におとす原因を求める者たちがいる。しかしこれはまるで神の被造物である質料のうちに罪への原因を認め、それにより神自体を罪の原因とするような説である。そうではなく、人間が犯した罪を神は伝達しているだけであり、しかも新約聖書に書かれているように、その罪は神の憐れみによって贖われると考えねばならない]

神の作品に不完全なものはなにもない。しかし人間は不完全であり、罪に堕ちた霊魂が生まれる。その原因はアダムの不信であり、それによりこの堕落がすべての子孫へと伝達されたのである。霊魂が身体抜きで存在することはできなかったが、生成なしに存在するのは可能であった。身体と生成はこの堕落[した霊魂?]なしでは存在することはできなかった。自分が生んだのではない悪[i.e., 原罪]がすべてのアダムの子孫へと伝達されるのを許すような神を不正とは言えない。というのは善であろうが悪であろうが、何らかのはじまりから出発するというのが必然であり、かつ人間の悪は伝達ゆえにあるのであって、創造ゆえにあるのではないのだから。この悪は神の憐れみによってのみ善へと変えることができる。このことは聖書によって明らかにされている。このような議論により、神によって創造された人間霊魂の不運につい考察し、嘆いている学識者たちを満足させられる。彼らはまるで罪のない霊魂が罪に染まった身体のなかで危機にされているかのように考える。あたかも別の増殖の仕方でアダムの子孫が生まれることができた、あるいはこの惨めな出生の罪が創造者である神にあるかのように考えるのだ。(Imperfectum autem dei opus nullum est, sed quod homo imperfectus, et anima obnoxia peccatis nascitur, Adami ἀπιστία in causa fuit, a quo corruptela haec propagatur in omnes posteros. Anima quidem sine corpore non potuit esse, at sine generatione, corpus et generatio, sine corruptela hac non potuit esse. Non autem iniustus est deus, si malum, cuius autor ipse non sit, propagari in omnem posteritatem Adami permittat. Necesse est enim, ut sive bonum, sive malum aliquid sit, a principio quodam proficisci, et malum etiam humanum, a propagatione, et non etiam a creatione pendet, quod ipsum malum sola misericordia dei permutari possit in bonum, de quo sacris literis proditum est. Satis facere haec possunt eruditis de calamitate humanae animae a deo creatae, quaerentibus et deplorantibus, tanquam ipsa innoxia periclitetur in obnoxio corpore peccatis, quasi vero propagatione alia nasci potuerint posteri Adami, aut quasi culpa nativitatis huius miserae sit in creatore deo.) Sigs. G4v–G5r.