アンデッドとしての科学革命 Biagioli, "The Scientific Revolution is Undead"

 科学史家が科学革命という語り口に疑問を投げかけるようになってひさしい。その理由の一つは科学史という学問がこうむった変化にある。科学史が学問分野として確立するにともない、そこでのスタイルは他のより成熟した分野のそれに接近した。分析は精緻になり、脚注は厚くなり、スコープは狭まり、一般化には慎重になった。このようななかでテニュアを獲得するために、コイレの『閉じた世界から無限宇宙へ』のような作品を生みだすのが好適とは思われない。同時に初期近代の科学史は、白人の男性が物理学の領域を中心に、かつての欧州における白人男性の業績を研究するという領域ではなくなった。医学や自然誌といった等閑視されてきた分野なり、女性が果たしてきた役割なりが考慮にいれられるようになった。

 だが科学革命という言葉はいぜん講義のタイトルとして用いられているではないか。ここで科学史家は二つの顔を使いわけている。学部生に科学史を講義するさいには、科学革命なるものがまるであるかのように教える。だが研究の領域では、科学革命というカテゴリーを批判する。なぜこのようなことが起こるのだろう。それは「科学革命」というカテゴリーがアカデミックな市場において価値を持っているからだ。歴史学において大文字で表記されるカテゴリーは、ジョブ・マーケットを維持する力をもつ。ポストの設置を学部長に説くにあたり、フランス革命、科学革命、宗教改革を教えるポジションのほうが、17・18世紀のバルカン半島の歴史を教えるポジションのほうが容易なのだ。科学革命というカテゴリーが死なないのは、それが科学史歴史学科のニッチのうちに存続させる力を持つからである。

 こうしてみると、科学史におけるミクロストリアが実はローカルな語りを提供していないことも納得できる。それらのローカルな事例をとりあげる研究は、実際にはグランド・ナラティブに依拠している。知識はローカルな文脈で産出されるというテーゼだ。このテーゼを様々な事例によって裏づけている。逆にいえば、このテーゼに事例を使って様々な意匠をほどこしている。こうして科学史の著作はたとえば知識一般について考えたい社会学者にも読まれうるものとなる。別の領域にも有効な知見を提供できる領域として科学史は維持される。

 歴史学において何がマクロなのか、何がミクロなのか、何がそのあいだにある中くらいの段階なのか、何がローカルなのか、何が一般的なのかを規定する境界は本質的な定義によって引かれるものではない。それはある分野がおかれた状況のうちで、いかに自分の価値・意義を確保しようかという狙いのうちで構築されるものなのである。だからこそ科学革命は死なない。