モーセとイタリアの自然学 Lüthy and Spruit, "the Frisian Philosopher Henricus de Veno," #2

Christoph Lüthy and Leen Spruit, “The Doctrine, Life, and Roman Trial of the Frisian Philosopher Henricus de Veno (1574?–1613),” Renaissance Quarterly 56 (2003): 1112–1151.

 1598年に釈放されたデ・ヴェノは、バーゼルを経由して、故郷に戻る。戻ってきた彼は、法学、哲学、神学の学位を国外で取得したと自称していた。このうち法学の学位に関しては確かに取得していた可能性がある。しかし、残りの二つについては間違いなく嘘であった。

 1601年にフラネケル大学の倫理学・自然学教授となる。年収は600フロリンであった。その大学生活は平穏ではなかった。1609年に総長に就任したものの、同僚から訴訟を起こされている。訴訟の原因は正確には分からない。彼の特異な教育内容と、その行動(傲慢であったと伝えられている)が関わっていたのだろう。他にも、神学的な問題が絡んでいたのかもしれない。彼は一時的に職を解かれたものの、1611年に再度教授職に戻っている(ただし、年収は100フロリン下がった)。1613年に亡くなった。

 デ・ヴェノの主催した討論を見ると、彼が神学上の真理と哲学上の真理の一致を強く唱えていたことが分かる。いわゆる二重真理説を批判する点で、オットー・カスマン、ルドルフ・ゴクレニウス、ニコラウス・タウレッルスのような当時のプロテスタントの知識人にならっていた。哲学と神学を一致させるために、デ・ヴェノは聖書が自然学上の真理の源泉となると主張する。彼にいわせれば、アダム、ノア、ソロモンは、「自然学の著者」なのであった。彼がいわゆるモーセの自然学の構想を抱いていたことが分かる。

 自然学の学説としては、デ・ヴェノは元素の数を2つに減らしている。元素は土と水だけである。それぞれ乾、湿の性質をもつ。火は元素ではない。空気は単純な物体ではあるものの、混合物を構成するような元素ではない。それはむしろ天からくる熱を伝達する役割を果たす。また質料と形相の結合を可能にする精気を想定している。この精気が熱を道具として使って、様々な現象を引き起こす。これらの学説を、デ・ヴェノはイタリアの自然哲学者ジローラモカルダーノから引き継いでいた。

 政治を主題とする討論では、あるべき宗教的な実践と教義を決めるのは国家であり、教会ではないとデ・ヴェノは主張している。最後に、徴(しるし)を扱う討論では、徴によって意味されているものは、徴と同じ場所にはないという説が唱えられている。これは、聖化されたパンとぶどう酒とおなじ場所に、キリストの身体と血はないというカルヴァンはの聖餐式解釈を正当化する役割を果たしていた。

関連書籍
天才カルダーノの肖像: ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈 (bibliotheca hermetica 叢書)
 

 

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