アルミニウス主義者の夢 Lüthy and Spruit, "the Frisian Philosopher Henricus de Veno," #3

 デ・ヴェノを理解するためにおさえておかなくてはならないもう一つの文脈は、いわゆる「ウォルスティウス事件」である。コンラッド・ウォルスティウス(フォルスティウス)は、シュタインフルトのギムナジウムの神学教授であった。1588年に設立されたシュタインフルトのギムナジウムは、1614年にフローニンゲン大学ができ、1630年にデーフェンテルに学校ができるまでは、カルヴァン主義の牧師をオランダに供給する重要な拠点であった。実際、オットー・カスマンやクレメンス・ティンプラーという著名な神学者が、シュタインフルトで学んでいる。

 事件の発端は、1610年にウォルスティウスがライデン大学の神学教授に任じられたことにあった。ヤコブス・アルミニウスの後任である。ここから10年あまりに渡るアルミニウス主義者と反アルミニウス主義者の争いがはじまることになった。抗争は最終的に、1619年のドルトレヒト公会議で、ウォルスティウスがオランダから追放されるまで続く。

 この争いで重要な役割を果たしたのが、デ・ヴェノの同僚の神学教授視ブランドゥス・リュッベルトゥス(Sibrand Lubbert, ca. 1555–1625)であった[この人物については、W. J. ファン・アッセルト編『改革派正統主義の神学 スコラ的方法論と歴史的展開』青木義紀訳(教文館、2016年)、162ページを見よ]。カルヴァン主義の正統派を自認するリュッベルトゥスは、ウォルスティウスとだけでなく、彼が正統派と相容れないと考えた多くの神学者と論争を繰り広げていた。論争は、アルミニウスの弟子であるシモン・エピスコピウスがフラネカーにやってきて、リュッベルトゥスと公開討論を行うなど激しさを増していく。

 ウォルスティウスの見解で最も問題視されたのは、神と被造物にアリストテレスの10のカテゴリーを一義的に適用しようとした点であった。これにより、神が物質化されてしまうという危惧を多くの神学者が抱いたのである。

 デ・ヴェノがウォルスティウスをめぐる論争にたいしてどのようなスタンスをとっていたのかは分からない。しかし神学の真理と哲学の真理が一致すると強く信じ、また正統的な教義を定めるのは教会ではなく国家であると考える点で、デ・ヴェノはウォルスティウスと見解を同じくしていた。ウォルスティウスの事件が起きる前後に、デ・ヴェノの職務停止が起き、復職の際には「精妙な問い」に取り組むのを避けるように、と条件が付けられていることを考えるならば、デ・ヴェノがウォルスティウスのようなアルミニウス主義者に接近していると認知されていた可能性は十分考えられる。

 デ・ヴェノの著作は出版されず、その後忘れ去られてしまった。しかし彼の学説は確かに受け継がれている。彼の学生であった原子論者ダヴィド・ゴルラエウスである。彼はデ・ヴェノの2元素説を受け入れただけでなく、アリストテレスの場所の定義を、ユリウス・カエサル・スカリゲルのそれに置き換える点でもデ・ヴェノにならった。それ以上に、哲学と神学の一致を信じるという点で、デ・ヴェノの精神はゴルラエウスに継承されているのである。

 アルミニウス主義者のなかには、たとえ見解の不一致があっても、理性にもとづく議論を続ければ、やがて一致にいたるとする者たちがいた。そうして、宗派の分裂すら克服できると考えていたのである。もし、デ・ヴェノがアルミニウス主義者に共感を寄せていたとするなら、あるいは彼の不可解なローマ訪問も、キリスト教の統一を夢見たための行動だったのかもしれない。

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