フラネケルからローマの監獄へ Lüthy and Spruit, "the Frisian Philosopher Henricus de Veno," #1

 

Christoph Lüthy and Leen Spruit, “The Doctrine, Life, and Roman Trial of the Frisian Philosopher Henricus de Veno (1574?–1613),” Renaissance Quarterly 56 (2003): 1112–1151.

 ダヴィド・ゴルラエウス(David Gorlaeus, 1591–1612)は、初期近代の原子論者にして、神学を学ぶ学生であった(在学中に21歳で没している)。この人物の知的な背景を探ると、学部時代を過ごしたフラネケル大学の哲学教師であるヘンリクス・デ・ヴェノ(Henricus de Veno, 1112–1151)に行き当たる。

 1574年頃にレーワルデンで生まれたデ・ヴェノは、フラネケル大学でまずは学んだ(この大学は、1585年に設立されたばかりであった)。その後、ライデンで哲学の修士号を取得している。1596年にフラネケル大学に戻り、神学部の学生となる。しかし、そこで学位を取ることはなく、国外で学ぶことを選択した。1599年に再びフラネケルに戻ってきたときには、彼は法学、医学、そして哲学の学位を取得したと自称していた。

 なるほど確かに彼は国外で学んでいた。1598年にバーゼル大学の神学部に登録していたことが、大学の記録から分かる。しかし驚くべきことに、その記録によれば、ヴェ・ヴェノはバーゼルに来る以前にローマにおり、しかもそこで投獄されていたというのだ。

 実際、異端審問所の記録によると、デ・ヴェノは異端者であるとされ、異端誓絶を行っている。彼自身の証言によると、カルヴァン主義への信仰を失って、イタリアに来たのだという。この証言がどの程度信頼できるかはわからない。彼はカルヴァン主義者としてローマに来たのかもしれない。いずれにせよ、彼が最終的に審問の場で、カルヴァン主義の異端から離脱し、カトリックに加わると誓ったことは確かである。その後彼は一週間もしないうちに釈放された。異端審問所は、生まれながらのカトリックの異端には厳しかったものの、プロテスタント圏で生まれた者の異端の初犯には比較的寛大であった。なお、デ・ヴェノが投獄されていたときには、ジョルダーノ・ブルーノも同じ場所にいた。彼らのあいだでどのようなやり取りがあったかは(そもそもやり取りがあったかどうかも)分からない。