スピノザの反逆はいつからはじまったのか Israel, Spinoza

 

 ジョナサン・イスラエルによる新しいスピノザの伝記が出た。伝記の実質的なはじまりである第3章 "Youthful Rebel" は、スピノザの破門の問題を扱っている。そこでイスラエルがまず主張するのは、スピノザが破門を招くような考えを持ちはじめたのは、破門(1656年)よりもかなり前からであるということである。破門は、スピノザが以前から抱いていた考えを55年の後半から公然と主張するようになったために起きたという。この主張は、スピノザが破門を招くような考えを持つようになったのは、破門の前年の1655年からで、その年にアムステルダムにやってきたファン・デ・プラドの影響を受けてのことだという説の否定となっている。

 プラドの影響説はいくつかの難点を抱えているとイスラエルは言う。まず、それはスピノザが突然見解を変えたとすることになる。これはスピノザの性格に合致しないように思える。また、影響はプラドからスピノザではなく、スピノザからプラドの方へではなかったかと思える証拠がある。プラドはこの時期モーセ五書は人間が作成した混乱した文書群だと主張していた。しかしプラドはヘブライ語をほとんど解さなかった。そして、この見解はスピノザと同じである。となると、プラドはスピノザからこの見解を学んだのではないかと思われる。

 イスラエルがプラド影響説を否定する最大の典拠は、『知性改善論』の書き出しである。彼はMigniniとVan den Venの研究にしたがって、この書が現存するスピノザの最初の著作であり、1659年以前に、おそらくはその数年前に(さらにいえば1656年か1657年の前半に)書かれたとみなす。この書の書き出しは次のようなものである。

一般生活において通常見られるすべてのものが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったすべてのものが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した、我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いや、むしろ一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探究してみようと。私はついに決心したと言う。なぜなら、まだ不確実なもののために確実なものを放棄しようとするのは一見無思慮に思えたからである。というのは、私ももちろん名誉や富からいろいろな利益が得られることを知っていたし、またもし私が他の新しいもののために真剣に努力するとなると、それらの利益を求めることから必然的に遠ざからねばならないことも知っていた。だから、その場合、もし最高の幸福がそれらのものの中に含まれているとしたら、私はその幸福を失わなければならないことが明らかであった。だがもし実はそれらのものの中には含まれていないのに、ただそれらのためにばかり努力するとしたら、私はやはり最高の幸福を欠くことになる。そこで私は、私の生活の秩序と日常のやり方とを変えずに新しい計画を遂げることが、あるいは少なくともそれに関して確かな見込みをつけることがもしや可能ではないかどうかを心に思いめぐらして見た。しかししばしば試みたにもかかわらず、それは無駄であった*1

 イスラエルはこの文章を、スピノザが破門以前の自分の状態を回顧したものだと理解する。「名誉や富」とは彼の父親が商会を経営することによって蓄えてきたものである。これを捨て去ることは難しい。しかし「真の善」が存在するかどうかの探究にも着手したいこのジレンマの中でスピノザは、「私の生活の秩序と日常のやり方を変えずに」、つまり商会の経営に携わったまま、「新しい計画を遂げる」、つまり真の善の探究に従事することを幾度か試みてきた。しかしこの両立の試みはうまくいかなかった。しかし、このジレンマは思わぬ仕方で解消されることになる。商会の経営が1654年から56年にかけて危機に陥るのである。このため、1655年から56年にはスピノザは「名誉と富」の誘惑から解放され、「新しい計画」に専念することを「ついに決心した」。こうして、彼は長年の考えを表明し、そのため破門を招いたのである。

 イスラエルがプラド影響説を否定するもう一つの大きな根拠は、スピノザの『遺稿集』に友人であるイェレスが寄せた序文である。そこには次のように書かれている。

スピノザは]若いころから書物によって育てられてきた。そして青年時代には長年にわたって神学に取り組んだ。しかしその後、精神が成熟し、事物の本性を探求するのに適した年齢に達すると、哲学に専念した。その際、教師たちも、またこれら[神学と哲学という]諸学問について書いた著述家たちも、彼を満足させなかった。しかし彼は知ることに対するこの上もない愛に燃え上がっていた。このため彼は、それらの学問[神学と哲学]において自分の精神の力が何をなし遂げられるかを試そうと決心した。この目標を追求するにあたって、高貴にして最高の哲学者であるルネ・デカルトの哲学著作が大いに彼の助けとなった。したがって、あらゆる種類の仕事と為すべきことに対する気遣い(これらは真理の探究をたいていは妨げるものである)から自らを解放した後に、友人たちによって自身の省察が乱されることがないように、彼はそこで生まれ教育を受けたアムステルダムを後にした。そして最初にレインスビュルフに、次にフォービュルフに、そして最後にハーグに住んだ。そこで1677年3月の9日前[2月21日]に結核のためにこの世を去った。44歳を過ぎた後のことであった*2

 これによると、スピノザは破門される(つまりアムステルダムを後にする)前にヘブライ語とラビ文献の研究を行っていた。また、スピノザは破門される前から教師たちや、ユダヤ人共同体で読まれている書物に満足できていなかった。これらの記述は、破門の前年に突然スピノザがプラドの影響で新たな見解を持ちはじめたという説と合致しない。

 このイェレスの記述に沿うことで、プラド影響説のもう一つの難点も免れることができる。もしプラドの影響によりスピノザが1655年に伝統的なユダヤ教の教えから離反したとすると、それから『知性改善論』の執筆までのわずか数年のあいだに、彼はラテン語デカルトの哲学を修めなければならないことになる。しかし、イェレスの記述は破門のかなり前からデカルト哲学の研究を始めていたと解釈でき、このような難点を生じさせない。

 以上からイスラエルは、スピノザが破門を招くような考えを持ちはじめたのは、破門(1656年)よりもかなり前からであるということであると結論づける。

*1:スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、1968年、11–12ページ。

*2:Spinoza, Opera posthuma (Amsterdam, 1677), sig. *2r–v: "Fuit ab ineunte aetate literis innutritus, et in adolescentia per multos annos in Theologia se exercuit; postquam vero eo aetatis pervenerat, in qua ingenium maturescit, et ad rerum naturas indagandas aptum redditur, se totum Philosophiae dedit: quum autem nec praeceptores, nec harum Scientiarum Auctores pro voto ei facerent satis, et ille tamen summo sciendi amore arderet, quid in hisce ingenii vires valerent, experiri decrevit. Ad hoc propositum urgendum Scripta Philosophica Nobilissimi et summi Philosophi Renati des Cartes magno ei fuerunt adjumento. Postquam igitur se ab omnigenis occupationibus, et negotiorum curis, veritatis inquisitioni magna ex partes officientibus, liberasset, quo minus a familiaribus in suis turbaretur meditationibus, urbem Amstelaedamum, in qua natus, et educatus fuit, deseruit, atque primo Renoburgum, deide Voorburgum, et tandem Hagam Comitis habitatum concessit, ubi etiam IX Kalend. Martii anno supra millesimum et sexcentesimum septuagesimo septimo ex Pthisi hanc vitam reliquit, postquam annum aetatis quadragesimum quartum excessiset."