スピノザと無割礼の記憶 Israel, Spinoza

 

 第5章 "Childfood and Family Tradition" では、スピノザにより近い祖先たちの人生が語られる。なかでも興味深いのは、スピノザの曽祖父 Duarte Fernandes の話である。彼はスペイン、オランダ、モロッコという三つの国家と巧みに交渉しながら、貿易ネットワークを拡張していった。

 スピノザに関するイスラエルの主張として押さえておかなければならないのは、Duarteの義理の息子(スピノザの祖父)である Henrique Graces である。彼は  Baruch とも呼ばれており、スピノザの名は彼から取られている。Henrique は1619年3月13日にアムステルダムの墓地に埋葬された。記録によると彼は最後まで無割礼であった。このため彼の死後割礼が施された。その後、無割礼で亡くなった者が埋葬される墓地のはずれの場所に埋葬された。無割礼であるというのは、当時のアムステルダムユダヤ人共同体では非難に値することであり、実際割礼者とは別の場所に埋葬されていたのである。

 Henrique の妻の Miriam は、夫の隣に埋葬されることを望み、1640年にはその許可を得た。しかし、彼女が1647年に亡くなった時、彼女は夫とは離れた場所に埋葬された。これはおそらく彼女の息子の Michael、つまりスピノザの父の意向である。彼が Miriamの望みを無視したのか、あるいは最後に Miriam を説得して夫から離れた場所に埋葬することを認めさせたのかは分からない。

 イスラエルはこの経緯が、スピノザの『神学・政治論』におけるユダヤ人の儀礼遵守と割礼に対する批判的な見解をもたらしたのだという。スピノザは『神学・政治論』第3章でパウロの次の言葉を肯定的に引いている。

もし割礼を受けた人が律法に反するなら、受けた割礼は包皮[=無割礼]となるでしょう。反対に、もし包皮を残した[=無割礼の]人が律法の指図を守るなら、その人の包皮は割礼と見なされるでしょう*1

 また同章の終わり近くでは、次のように述べている。

だから今日のユダヤ人は、自分たちが他のあらゆる民族以上にそれに恵まれていると言えるようなものを何一つ持っていない。それなのに彼らが長い年月にわたり、国を持つことなく散らばった状態でも存続してこられたのは、奇跡でもなんでもない。彼らは既に、万人の憎しみを引きよせてしまうほどに、他のあらゆる民族と隔たってしまっていたのである。それは多民族のものと全く合わない外的な儀礼のせいだけでなく、きわめて熱心に守られている割礼のしるしのせいなのである*2

この点では、割礼のしるしの効力も大きいと思われる。これ一つだけでもこの民族を永遠にわたって存続させられるだろうと確信できるほどである。それどころか、彼らの心が普遍宗教的な諸原理によって和らげられるならともかく、そうでない限り、私はこう信じて疑わない。変わりやすい人の世の出来事の中で、いつかその機会が与えられるなら、彼らは自分たちの国を再び打ち立てるし、神は彼らを改めて「選ぶ」だろう*3

 イスラエルは、これらの文章に現れているスピノザユダヤ教儀礼と割礼の実践に対する批判的な姿勢を、彼の祖父と祖母の記憶に由来するものとする。

 

*1:スピノザ『神学・政治論』第3章、吉田量彦訳、光文社古典新訳文庫、上巻、175ページ

*2:スピノザ『神学・政治論』第3章、吉田量彦訳、上巻、183ページ

*3:スピノザ『神学・政治論』第3章、吉田量彦訳、上巻、184ページ