- 作者: Jonathan I. Israel
- 出版社/メーカー: Oxford University Press, USA
- 発売日: 2001/03/29
- メディア: Kindle版
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- Jonathan Israel, Radical Enlightenment: Philosophy and the Making of Modernity 1650–1750 (Oxford: Oxford University Press, 2001), ch. 4.
『ラディカルな啓蒙』の第4章の主題は女性である。知的なやりとりがフランス語でなされるようになる。それにともない議論の場が大学や法廷から、宮廷、コーヒーショップ、クラブ、サロンへと拡張する。その結果、女性(とりわけ身分の高い女性)が議論に参入し、そこで新たな哲学に触れることとなった。このような状況の中、デカルトやスピノザの書物を読み、その考えに共鳴する女性があらわれる。たとえばGiuseppa-Eleonora Barbapiccolaは、デカルトの『哲学原理』をフランス語からイタリア語に訳した。彼女の目的はデカルト主義を女性のあいだに広め、より多くの女性を哲学の議論の場へと導くためであった。たしかに高貴な女性の多くは、最新のファッションや、今日どんなリボンをつけるかといった話をして時間を浪費している。しかしこれは本性ではなく、悪質な教育が生んでいる状況である。女性の教育を根本的に改革せねばならない。
新たな哲学は女性を旧来の地位から解き放つ理論的根拠を与える可能性を有していた。デカルトの機械論は女性性の観念を破壊するように思われた。スピノザ自身は女性の男性への従属を肯定していた。だが社会秩序のあり方を神に付与されたものではなく世俗的に生みだされたものとする彼の哲学は、女性と男性の平等性という帰結をもたらす可能性を秘めていた。実際、Adriaan Beverlandはスピノザ主義の立場から、快楽の追求が男性にとっても女性にとっても根本的であるとし、それゆえ貞淑であるというような徳は女性に生来のものでなく、外部からかはたまた女性自身によって押しつけられている欺瞞の一形態であると論じた。純粋で貞淑な女性など本来的には存在しない。
この種の立論は反発を招く。Theodore Undereyckは、女性が書物を読みたがらず、限られた理解力しか有さないのは、愚かさの証としてではなく、神から与えられた素晴らしい贈り物と理解せねばならないと主張した。それよりに女性は男性よりも純粋でより清らかで敬虔に生きることができるからだ。女性が神に対して従順であるというのは、女性が男性に対して生来的に従順であるように創られていることからも理解できる。他方男性は生来的に女性を支配するように定められており、それがゆえにしばしば神に反抗するのだ。このようなことを理解せず、ヴェルサイユでは女性たちが「幾何学の永遠の真理」などについて話して、肉体的快楽を正当化する道を探っている。これがUndereyckの診断であった。
以上から分かる通り、女性の解放は人間が秘めた欲望の解放と密接に結びついていた。この点でRadicati(1698–1737)はラディカルな考えを提示した。何が善であり悪であるかは、何が個人なり共同体なりに利益をもたらし、何が害をもたらすかによって決まる。このスピノザ的前提から、Radicatiは性的な自由は男性にとっても女性にとっても望ましいものだという結論を導きだした。女子修道会の戒律は女性をマスターベイションに追いこんでいるだけで何の善さもない。さらに男性と女性を隔離することによって、同性愛が盛んになる。イングランドとオランダで同性愛が少ないのは、それらの地域では比較的寛容に性的自由が認められているからである。処女性を重視することから何が生じているか。結婚前に身ごもった女性は、社会からの制裁をおそれ、生まれた子を捨てるか、殺している。