宇宙外の空虚の起源 Grant, Much Ado about Nothing, ch. 5

 

  • Edward Grant, Much Ado about Nothing: Theories of Space and Vacuum from the Middle Ages to the Scientific Revolution (Cambridge: Cambridge University Press, 1981), 105–115.

 前近代の場所と空虚に関する理解についての基本中の基本書から、宇宙外の空虚について論じた箇所を読む。分析の正確さ、表現の的確さ、複雑な流れをまとめる構成の巧みさに、読んでいて幸せな気分になる。まずは、宇宙外の空虚についての議論のルーツを探る章を読む。

 アリストテレスは、『天界について』のなかで「同時にまた明らかなのは天の外には場所も空虚も時間もないということである」としている。アリストテレスによれば、空虚があるためには、そこに物体がある可能性がなければならない。しかし天の外には物体がありえないのだから、空虚もありえない。

 すでにアリストテレス以前に、ピュタゴラス派が宇宙の外側に無限の領域を認めていた。

ある人たちは、たとえばピュタゴラス派やプラトンがそうであるが、無限なるものをそれ自体として存するもの、すなわちそれとは異なる何か別のものに付帯してではなく、まさにそのものとして存する基本存在(実体)だとしている。ただし、ピュタゴラス派の人たちはそれを感覚される事物のうちにあるものとし(というのは、彼らは数というものを事物から切り離すことをしないからであるが)、また宇宙の外側の領域をも無限だとしているのに対して、プラトンは、宇宙の外側には何らの物体も存在せず、また諸イデアも―それらはどこかに存在するというものではないのだから―やはりそこに存在しないとしつつ、しかし感覚される事物のうちにも、かのイデアのうちにも無限なるものがあるとしている。(アリストテレス『自然学』第3巻第4章、203a4–10、内山勝利訳『新版アリストテレス全集』第4巻、岩波書店、2017年、130ページ)

アリストテレスによると、ピュタゴラス派はこの空虚を、無限の気息(プネウマ)ととらえていた(アリストテレス『自然学』第4巻第6章)。またシンプリキオスの『自然学注解』のなかには、ピュタゴラス派のアルキタスが、宇宙の外側に物体の存在しない空虚が際限なく広がっていると論じている箇所が引かれている。

 シンプリキオスの『自然学注解』は中世ヨーロッパでは利用できなかったのに対して、彼の『天界について注解』は利用できた。そこでシンプリキオスは、ストア派が宇宙外に空虚を認めていたと報告している。

ストア派の人々は宇宙の外側に空虚があると言おうとして、そのことを次のような想定を通じて確証している。すなわち、恒星天球の縁に誰かが立って手を上に伸ばすとしよう、と彼らは言う。もし伸ばす[ことができる]なら、宇宙の外に何かその人がその中に手を伸ばしたところのものがあることがわかる。だが伸ばすことができないなら、そのことによっても、手を伸ばすことを妨げるものが何か外にあることになる。さらにもしさらにそのものの限界に立って手を伸ばす場合にも問いは同様になろう。それの外にも何らかの存在があることが示されることになるだろうからである。(シンプリキオス『アリストテレス天界について注解』284–285;SVF2:535、山口義久訳『初期ストア派断片集』第3巻、京都大学学術出版会、2002年、16–17ページ)

ストア派は、この宇宙外の空虚は無限であると考えていた(SVF2.535b)。

 宇宙外の無限の空虚についての以上の議論は、自然学的なものであり、ユークリッド幾何学的な空間を、この世界に適用した結果ではないということに注意が必要である。

 宇宙外の無限の空虚が中世で議論になったのは、1277年の禁令以降であった。禁令では、神の絶対的な力を制限するかに思えるような命題が断罪されている。その中には、次のようなものがあった。

第一原因は多数の世界を造ることはできない。(八木雄二、矢玉俊彦訳『中世思想原典集成』第13巻、平凡社、1993年、655ページ)

神は直線運動によって天を動かすことはできない。その理由は、直線的に動かすとすると、[動かした後に]空虚を残すことになるからである。(659ページ)

神が多数の世界をつくるなら、世界と世界を隔てる空虚がなければならない。神が世界を直線的に動かすなら、それは空虚を後に残し、かつては空虚であった場所に行くのでなければならない。こうして、神の無限の力によって〜が実現されたならば、という形で、宇宙外の空虚について論じることが行われるようになった。

 中世で宇宙論的な空虚が論じられたもう一つの文脈は、世界の永遠性と関係していた。アリストテレスは、『天界について』で次のように論じていた。

だがあらゆるものに生成があるわけではなく、いかなるものにも絶対的な意味での生成はないということは以前に論じられたところからして明らかである。すなわち[物体とは]個別された空虚もありうるのでなければ、いかなる物体の生成もありえない。今から生成するものがもし生成するとしたらそこに生じるであろう場所には、それ以前はいかなる物体もないのだから、必然的に空虚がある。或る物体が別の物体から、たとえば空気から火が、生成することは可能だが、しかし先在する他のいかなる大きさからでもないというのはまったく不可能である。(アリストテレス『天界について』第3巻第2章301b31–302a9、山田道夫訳『新版アリストテレス全集』第5巻、岩波書店、2013年、155–156ページ)

ここから、もし無からの生成があるなら、それ以前には空虚がなければならないという議論が取り出せる。これをアヴェロエスは世界の生成と結びつけた。もし世界が無から創造されたならば、それ以前には空虚がなければならない。アリストテレスアヴェロエスにしてみれば、空虚がありえないのだから、無からの創造(「絶対的な意味での生成」)はありえないのだった。

 中世で無からの創造を否定するのは難しかった。同時に、創造前の空虚を認めることも簡単ではなかった。1277年の禁令は次の命題を断罪している。

世界が全体的に産出されるとすると、空虚があることになる。なぜなら、場所は場所の内に生み出されるものに必然的に先立ち、また世界が全体的に産出されるとすると、世界が産出される前に、置かれているものが何もない場所、つまり空虚があったことになるからである。(673ページ)

創造前の空虚が警戒されたのは、それが神から独立に永遠に存在するものとみなされかねないからである。ここから、創造前の空虚がなくても神は世界を創造できるという学説が唱えられた。この学説はとりわけ13世紀に広く支持された。

 しかし14世紀に入ると、創造前の空虚を、なんらかのかたちで神自身と結びつける解釈が現れる。確かにこのように解釈しなければ、永遠なるものを認めることはできないだろう。このように創造前の空虚が神と関連させられるようになると、この問題は神の場所という論点とつながりをもつようになる。神は遍在すると考えられていた。だとすると、創造前にはどこにいたのだろうか。

 神の場所についての議論の基本的な枠組みは、ユダヤキリスト教の伝統によって与えられた。アレクサンドリアフィロンは、神を場所と同一視している。

[神は]如何なるものによっても包括されないだけでなく、あらゆる万物が逃げ込む地である。何故なら、この方は自らを受け入れる自らの場であり、また自らによってのみ満たすからである。さて、私[フィロン]は場所ではなくて、場所の中にいるのであって、[他の]各々の事物も同様である。もちろん、包括されるものは、包括するものから区別される。しかし、何ものによっても包括されない神的なものは、必然的に自ら自身の場所なのである。(フィロン『夢』1.63–64、津田謙治訳『神と場所』知泉書館、2021年、35ページ)

以後のラビ文献でも、神は世界の場所だと述べられている。

 初期のラテン教父も神の場所についてある程度論じているものの、この問題について深く考察していた様子は見られない。にもかかわらず、教父たちのそれ自体としては簡潔極まりない言明が、後の時代にはこの問題についての重要な典拠として引かれるようになる。

 とりわけ重視されたのがアウグスティヌスの言明であった。アウグスティヌスは、天地が創造される前に、神は「自らのうちに」いたと主張していた。この主張により彼は、宇宙外の空虚の存在を否定していた。しかし彼の言明は、宇宙外の空虚を拒絶するためだけでなく、それを正当化する論拠としても用いられるようになる。

 またアウグスティヌスは、『神の国』第11巻第5章で、神を創造者と考える「かれら」[プラトン主義者たちのこと]について、次のように述べている。

それらの人びとは神の実体もある場所に制限することもなく、限定することもなく、またひろがらせることもなく、神について考えることがふさわしいように、神の実体は、非物体的なものではあるが、いたるところに全体として現存することを認めながら、神の実体は世界以外のあのような広大な空間には存在せずに、ただ一つの、かの無限の空間に比べるとじつに狭小な場所に、すなわち、世界がある場所にあるにあるというのであろうか。わたしが、かれらがこのような空言を弄するだろうとは思わない。(アウグスティヌス神の国』第11巻第5章、服部英次郎訳、岩波文庫、1983年、第3巻、20ページ)

無限の空間があるならば、そこにも神(ないしなんらかの霊)がいるはずだという考えを、アウグスティヌスは『アスクレピオス』から取ったのかもしれない。『アスクレピオス』は空虚の存在こそ否定されているものの、もし宇宙外に空虚があるならば、そこは知性的な諸事物(intellegibilium rerum)によって満たされているはずだ、としている(第33節)。ここから、宇宙外にある空間は物質ではなく霊的なものによって満ちているという考えが生まれたのかもしれない。

 最後に、神の場所の問題は、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』第1区分第37章でも取り上げられている。ロンバルドゥスは、「いかなる仕方で、神は事物のうちにあると言われるか」を問題にしている。この箇所が、神の場所についての議論の出発点となった。

ウォルスティウスとゴルラエウス Lüthy, David Gorlæus, 3.10

  • Christoph Lüthy, David Gorlæus (1591–1612): An Enigmatic Figure in the History of Philosophy and Science (Amsterdam: Amsterdam Amsterdam University Press, 2012), 119–122.

 

 

 ゴルラエウスと、神学者コンラッド・ウォルスティウスの関係について論じた箇所を読む。非常に駆け足でウォルスティウスの学説を紹介しているため、厳密に彼の論理をたどるのが難しい論述になっている。

 1641年にギスベルトゥス・ヴォエティウスは、ゴルラエウスの哲学を、ニコラウス・タウレルスとコンラッド・ウォルスティウスと結びつけていた。より正確には、ゴルラエウスが、人間は偶有性によって一つであるという見解をタウレルスから学んだとしたうえで、タウレルスをハイデルベルク神学者たちが、彼らがウォルスティウスを批判する文書のなかで無神論者と呼んだことに触れていた。

 ではゴルラエウスの哲学と、ウォルスティウスの神学のつながりはなんなのだろうか。ウォルスティウスの学説のうちで断罪されたものは、大きく分けて2つに分かれる。一つはキリストの地位を神にたいして相対的に下げるものであり、これはソッツィーニ主義との批判を招いた。もう一つは、予定に関するものである。ウォルスティウスによれば、神の正義というのはその本質を形成していない。そのため信仰というものを、神が罪を許してくれたことを信じることとして理解するのはあやまっている。なぜなら、罪を正義にしたがって許すというのは、神の本質には属さないからである。ここから、人間と神の関係というのは、改革派の正統派が考えるよりも遥かに開かれたものになる。というのも、神の本質に正義にしたがって罰するということが属さず、それゆえ人間の本質にも罰される(あるいは救済される)ということが属さないならば、人間がこの世界で行うこと次第で、神から許されるということがありうるからである。

 しかし、このように個人の行いによって許される可能性が開かれるとすると、神が全知であり、永遠の昔からすべてを予見していたという教義と衝突しないだろうか。この点に関してウォルスティウスは、神というものは時間のうちで変化しうると考えた。神が心変わりした事例は大量に聖書に記されているではないか。

 こうして、神による(救いや罰に関する)決定というのは、その本質からは分離され、神にとっては偶有的なものになる。よって、決定を下す意志は変わりうる。また、神はこの地上にその本質でもって遍在しているわけではない。そうではなくその活動によっていたるところにいるのみである。また神にとって永遠性というのは、分割不可能な総体ではなく、過去、現在、未来へと続く継続である。神は未来の出来事を、過去の出来事のようには知らない。彼はすべてを一挙に直観するのではなく、一つ一つのことを人間のように順番に考えることができる。よって、彼の自由意志に依存する決定というのは、永遠の昔から決まっていたわけではない。

 このように考えるなかで、ウォルスティウスは神を他の存在ensと同じように考えることで、神を物質化しているという批判を招いた。イングランドからは、ウォルスティウスの異端によれば、「神は本質的に広大ではなく、端的に無限でもない。そうではなく神はquantum(量的なもの)であり、有限であり、ある場所におり、ある仕方では物体的であり、ほぼ質料と物質からなっている」という。

 ウォルスティウスの神学からゴルラエウスは何を学んだのか。まず他の事物と同じような存在(ens)として神を理解する点を学んだと思われる。ゴルラエウスも哲学というものを、存在に関する知識と定義していた。またゴルラエウスが第一哲学を、自然学、天使学、神智学に分け、最後の部門を「神の本性とその属性」であると呼んだことにもウォルスティウスの依拠が現れている。というのも、これはまさにウォルスティウスの著作名であったからである。

タウレルスの神学的原子論 Lüthy, David Gorlæus, 3.11

  • Christoph Lüthy, David Gorlæus (1591–1612): An Enigmatic Figure in the History of Philosophy and Science (Amsterdam: Amsterdam Amsterdam University Press, 2012), 122–129.

 

 

 ゴルラエウスの原子論の出所を、ドイツの哲学者ニコラウス・タウレルスに探った箇所を読む。タウレルスはチュービンゲンでヤーコプ・シェキウスのもとで哲学を学び、その後神学に向かったが、最終的に医学の学位をバーゼル大学で取得した。1580年にアルトドルフ大学に着任し、そこで自然哲学を教えて生涯を終える。彼は自分をキリスト教哲学者と自称し、プロテンタント神学の土台を提供するような哲学を構築しようとしていた。そのために彼は存在論に向かう。存在について、とりわけ神の存在について、形而上学的な定義を与えることによってはじめて、神学上の難問を解消することができると考えたからである。

 彼によれば、存在(ens)と存在する(existere)とは同じことである。そして存在するものというのは、単一のものとして存在していなければならない。そうすると、存在するものが多数集まってできたものは、決してそれ自体として単一のものにはならない。それは、むしろ変化しない単一な存在たちが集まってできたものとなる。

 この主張は、神に適用される。神は存在の中の存在なのだから、存在がもつあらゆる性質をもたねばならない。そうすると、神は延長という量を持たなければならない。こうすることで、神の遍在、予知、その意志の変化の可能性といった難問を解決することができるという。たとえば、神を限定された量と理解することで、神の本質を一つの場所に限定することができ、それにより地上の出来事、たとえば聖餐や人間の行為から切り離すことができる(後者により自由意志を確保できる)。

 タウレルス本人を原子論者とみなすことができるかというと、一定の留保をつけながら肯定することができる。なるほど彼は原子の存在をどこでも証明はしていない。それを証明すると予告した著作は書き上げられなかったか、失われてしまったかして、出版されなかった。ただ、すべての存在は単一性をもつ素材であり、すべての複合体はこの単一な存在がつくる集合体であり、しかもこの存在に無限分割可能性を認めることはできないとし、さらにはその存在を原子と呼ぶことがあることを考えれば、彼が原子者であると結論してよいだろう。ただタウレルスは古代の原子論者は批判していた。彼の原子論は古代の原子論の復興ではなく、プロテスタント神学の要請に答えるためのものであった。

 ゴルラエウスはどうやってタウレルスの著作を知ったのか。彼がフラネカーで受けていた、デ・ヴェノの講義のなかではタウレルスがしばしば言及されていた。タウレルスはすでにハイデルベルク神学者たちにより、ウォルスティウスの着想の源泉だと指摘されていた。そしてフラネカーには、ウォルスティウスの弟子が多く存在していた。こういうことから、ゴルラエウスはウォルスティウスの背後にいると考えられたタウレルスの著作に手を伸ばしたのではないだろうか。その結果として、タウレルスから神学と哲学の全体を存在論から引き出すという着想を学び、またその存在論を原子論とすることを学んだのではないだろうか。

デカルト哲学と知性単一論 Verbeek, "'Ens per accidens'"

  • Theo Verbeek, "'Ens per accidens': le origini della querelle di Utrecht," Giornale Critico della Filosoa Italiana 12 (1992): 276–288.

 レギウスは、1641年の討論で、「精神と身体から単一の自体的な存在(ens per se)が生じるのではない。そうではなく、偶有性からなる単一の存在(ens per accidens)が生じる。なぜなら精神と身体は、それぞれで完全で完璧な実体だからである」と述べていた。これをヴォエティウスがどう解釈したかを検討した論文である。著者はヴォエティウスがレギウスの主張を、アヴェロエスの知性単一説と関連付けて理解していたと指摘する。アヴェロエスによれば、知性というのは一つである。知性は個別の人間ごとにあるのではない。だから、人間を個別化する働きを知性は果たしていない。質料形相論の術語でいえば、知性は forma informans ではなく、forma assistens だということになる。それは船における船乗りのようなものである。船と船乗りは一つの存在ではない。それらが一つであるのは、航行するという活動においてである。このような理解と、精神と身体がつくる単一性を、偶有的なものとするレギウスの主張がヴォエティウスによって重ねられる。そこから、レギウス・デカルト的な理解を、プラトン主義の世界霊魂論と関係させることも行われる。なぜなら、世界霊魂論とは、一つの霊魂が多数の事物に関わるという点で、単一の知性が多数の人間と関わるとする知性単一論と重なるからである。このような古くからの危険な学説と結びつくと考えたからこそ、ヴォエティウスはレギウスの見解に激しく反発したのだった。

ゴルラエウスのオランダでの受容 Lüthy, David Gorlæus, 4.2

  •  Christoph Lüthy, David Gorlæus (1591–1612): An Enigmatic Figure in the History of Philosophy and Science (Amsterdam: Amsterdam Amsterdam University Press, 2012), 134–139.

 

 

 ゴルラエウスの『演習』を所蔵しているオランダの図書館は、現在は2つしかない。しかし『演習』は当時は広く読まれていた。Adriaan Hereboordのような人物も、1648年の時点で、ゴルラエウスの形而上学を哲学の学び方に関する助言のなかで推薦している。ここでは、デカルトと関係があった3名の人物が、どうゴルラエウスを読んでいたかが検証されている。

 Jacob Ravenspergerは、1639年にグローニンゲンで行った討論で、ゴルラエウスが繰り返し言及している。Ravenspergerはときにゴルラエウスに同意し、特に異議を唱えている。Ravernspergerは、ゴルラエウスが元素の数を2つに絞ったことだけでなく、『演習』のほぼ全体を検討している。ただしゴルラエウスの原子論には関心を寄せていない。

 ヘンリクス・レネリは、デカルトの良き友人であった。しかしレネリが作成した討論を見ると、彼もまたゴルラエウスに依拠しているのが分かる。ゴルラエウスと同じく、伝統的な元素と混合の区別を否定しているし、火と空気を元素から除外している。

 ヘンリクス・レギウスは、1641年にユトレヒト大学で行った討論で、現在ユトレヒト事件として知られる論争を引き起こしたことで知られている。この討論はデカルトに大きく依拠しており、そのため最終的にデカルト哲学がユトレヒト大学で禁止されることになる。討論のなかでRegiusは、人間を「偶有性からなる存在」と定義した。「精神と身体から単一の自体的な存在(ens per se)が生じるのではない。そうではなく、偶有性からなる存在(ens per accidens)が生じる。なぜなら精神と身体は、それぞれで完全で完璧な実体だからである」。この見解を神学部の教授であるギスベルトゥス・ヴォエティウスは危険視した。それは、たとえば身体の復活の否定につながるからである。

 デカルト本人は、人間を偶有的な存在とする見解はレギウスが書いたものではないと弁明したものの、レギウスは書いたのは自分であり、それをゴルラエウスから学んだのだと宣言する。これを受けてヴォエティウスは討論を主催し、そのなかでゴルラエウスは人間を偶有性からなる存在とする主張を、タウレルスから学んだと解釈し、この主張を攻撃した*1。さらにヴォエティウスは、実体形相の学説を否定しようとする危険人物として、タウレルス、ゴルラエウス、バッソンの名前を挙げている。こうしてヴォエティウスのなかで、タウレルス、ゴルラエウス、バッソンと同種の理論を唱えるものとして、レギウスとデカルトは位置づけられた。同じように、スホーキウスも、デカルトがやろうとしているのは、アリストテレスを排斥しようとしたバッソン、タウレルス、ゴルラエウスの営みと同種のものだと攻撃している。

関連書籍

 

 

*1:このヴォエティウスの解釈に、デカルトも言及している。デカルトユトレヒト紛争書簡集』27ページ(AT7:586)。

ゴルラエウスのパリでの受容 Lüthy, David Gorlæus, 4.1

  • Christoph Lüthy, David Gorlæus (1591–1612): An Enigmatic Figure in the History of Philosophy and Science (Amsterdam: Amsterdam Amsterdam University Press, 2012), 134–139.

 

 

 

 謎に包まれた原子論者ゴルラエウスの著作の受容についての記述を読む。まずはパリでの受容である。

 ゴルラエウスの著作のうち、『自然学のイデア』(1651年)は、出版された時期も遅く、ほぼ関心を引かなかった。しかし『演習』(1620年)は1620年から50年にかけてオランダの内外でかなり広く読まれることになる。

 フランスではまずマラン・メルセンヌが繰り返しゴルラエウスを、novatoresの一人として攻撃している。彼によれば、ゴルラエウスは「すべての事物は無から来ている」、「物体のうちには、大きさと形をもつアトム」があると論じていた。ガブリエル・ノーデは、彼の図書館構想のなかで、ゴルラエウスの著作をその他のnovatoresのものとともに配架することを提案している。メルセンヌとノーデの記述からは、ゴルラエウスが1620年代にはパリで読まれていたことが分かる。彼の著作をパリにもたらしたのは、フーゴー・グロティウスかもしれない。

 さらに1651年には、Jean Bachoutがゴルラエウスをタウレッルスとともにnovatoresの一人として挙げて称賛している。この二人がセットになっていることから、彼が1641年のユトレヒト事件を知っていたと考えられる(この事件のなかで、ゴルラエウスとタウレッルスはセットにされていた)。

 Charles Sorelも、 Science universelle(1634, 1637, 1641, 1644)のなかで、ゴルラエウスに元素の数を2つに減らした人物として言及している。さらに火は偶有性であるというゴルラエウスの見解に異を唱えている。Sorelのゴルラエウスへの依拠は、1634年の Science des choses corporelles のなかにも認められると推測される。そこで示されている元素の理論は非常にゴルラエウスのものに近く、Sorelが執筆にあたって彼の『演習』を手元に置いていたのは間違いない。しかし、Sorelにとってゴルラエウスの重要性は、デカルトの著作が出版されることで減少した。その後は、ゴルラエウスはデカルトの更に大胆な自然哲学の先触れといった役割しか与えられないようになった。

哲学が1781年にはじまったとして、本当のところ何がはじまったのだろうか(はじまったことにされたのだろうか) フェルスター『哲学の25年』プロローグ

 何気なく読みはじめたら一気にプロローグまで読み終えてしまった。読ませる。巨大な推理小説のように、謎が謎を呼び、読者を引きずっていく感覚がある。

 18世紀の末にカントは言った。自分の『純粋理性批判』以前に哲学はなかったと。さらに、はじまったばかりの哲学は18世紀のうちに完成してしまうかもしれないと予言した。『純粋理性批判』の初版が出たのは1781年なので、この計算だと哲学ははじまってたった19年くらいで完成してしまうことになる。カントの死後まもなく、1806年にヘーゲルは言った*1。ここで哲学の歴史は完結したのだと。カントとヘーゲルの文言を悪魔合体させると、哲学というのは1781年にはじまって1806年に終わったことになる。哲学の歴史は25年で尽きてしまったというわけだ。

 もちろん、哲学ははるか昔からあったし、それ以降も続いている。そういうことをカントは否定したいわけではない。ヘーゲルもそうだろう。となると、まず問題になるのは、1781年に哲学がはじまったというとき、正確にいってどういう哲学がはじまったのかということである。なにが新しかったのか。

 この問いに対しては、カント自身が答えを与えてくれるように思える。カントは『純粋理性批判』の出版に先立つ1772年に述べていた。自分を含めてこれまでの形而上学に欠けていたものがある。それは、形而上学的な対象と、私たちのもつ表象(とりあえず心の中にもつイメージくらいの意味)がどう関係するのかというものである。これは感覚(感性)的な対象の場合は難しくはない。感覚的な対象は私たちを外部から刺激して、表象を生み出す。倫理的な対象でも難しくはない。それは私自身がもつ表象を通じて対象として存在するようになる(これからしようとするある行為について、これは善いとか悪いとか考えることで、善いとか悪いとかいった対象が現れるということだと思う)。しかし、問題が形而上学的な対象となると、その対象と私たちの関係は難しい。たとえば、魂についてである。それは私たちを外部から刺激するようなものではない。さりとて、私自身がつくり出すようなものでもない。この手の、外部にあるわけでもなく私たちが作りだしているわけでもないけれども、それについて学問的に何事かを語りえそうなものとして、形而上学的対象というものはある。この対象というのは、それについて私がもつ表象によって、正確にいってどのようにとらえられているのだろうか。このような問いを立てる哲学をカントは超越論的哲学と呼んだ。このような哲学はまだない。これをつくらないといけない。

 ということは、このように1772年に定式化されて超越論的哲学が、カントが18世紀末にいったこれまでなかった哲学をはじめさせたものなのだろうか。しかし、この答えはなにかがおかしい。というのも、1772年の時点でカントがないといっていたのは、形而上学的な対象についての超越論的な哲学に限られるからである。上記の記述からもわかるように、道徳哲学の存在は疑われていない。もしこの考えが引き続き保たれていたならば、18世紀末のカントの発言は、「『純粋理性批判』以前には、道徳哲学はあったけれども、いかなる形而上学(理論哲学)もなかった」とならなければならないはずである。しかしカントはおよそ哲学はなかったといっている。

 いったいなにがどうなっているのだろうか。実はカントは1781年に『純粋理性批判』を出した時点では、道徳哲学についても超越論的な哲学が必要だとは考えていなかった。しかしまもなく、超越論哲学は道徳も含むようになり、この結果『人倫の形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』が生まれることになる。このように超越論的哲学の範囲が拡張したことにより、カントは1781年以前にはおよそ哲学はなかったと言えたのである。

 こうして問題は複雑に定式化される。カントは18世紀末に、1781年の『純粋理性批判』以前には哲学はなかったと宣言した。しかし、このような考えは、1781年の時点のカントにはなかった。カントは81年以降に得た構想から振り返り、ある意味では歴史的な経緯を書き換えながら、81年以前には哲学はなかったと宣言しているのである。

 であるならば、81年に以前に哲学はなかったという発言の真の意味をとらえるためには、81年以降にカントの超越論的哲学の構想がどう拡張したのかが解明されなければならない。さらに、そうして拡張されたカントの構想が、どう1806年にいたるまで受け取られていったのかが明らかにされなければならない。そうすることではじめて、哲学の始まりと終わりの意味を明らかにできるだろう。

 こうして舞台は整った。ここから本論がはじまる。

*1:訳者解説によると、本当にこの年にいったかどうかを確証するのは困難らしい。