ゴルラエウスのパリでの受容 Lüthy, David Gorlæus, 4.1

  • Christoph Lüthy, David Gorlæus (1591–1612): An Enigmatic Figure in the History of Philosophy and Science (Amsterdam: Amsterdam Amsterdam University Press, 2012), 134–139.

 

 

 

 謎に包まれた原子論者ゴルラエウスの著作の受容についての記述を読む。まずはパリでの受容である。

 ゴルラエウスの著作のうち、『自然学のイデア』(1651年)は、出版された時期も遅く、ほぼ関心を引かなかった。しかし『演習』(1620年)は1620年から50年にかけてオランダの内外でかなり広く読まれることになる。

 フランスではまずマラン・メルセンヌが繰り返しゴルラエウスを、novatoresの一人として攻撃している。彼によれば、ゴルラエウスは「すべての事物は無から来ている」、「物体のうちには、大きさと形をもつアトム」があると論じていた。ガブリエル・ノーデは、彼の図書館構想のなかで、ゴルラエウスの著作をその他のnovatoresのものとともに配架することを提案している。メルセンヌとノーデの記述からは、ゴルラエウスが1620年代にはパリで読まれていたことが分かる。彼の著作をパリにもたらしたのは、フーゴー・グロティウスかもしれない。

 さらに1651年には、Jean Bachoutがゴルラエウスをタウレッルスとともにnovatoresの一人として挙げて称賛している。この二人がセットになっていることから、彼が1641年のユトレヒト事件を知っていたと考えられる(この事件のなかで、ゴルラエウスとタウレッルスはセットにされていた)。

 Charles Sorelも、 Science universelle(1634, 1637, 1641, 1644)のなかで、ゴルラエウスに元素の数を2つに減らした人物として言及している。さらに火は偶有性であるというゴルラエウスの見解に異を唱えている。Sorelのゴルラエウスへの依拠は、1634年の Science des choses corporelles のなかにも認められると推測される。そこで示されている元素の理論は非常にゴルラエウスのものに近く、Sorelが執筆にあたって彼の『演習』を手元に置いていたのは間違いない。しかし、Sorelにとってゴルラエウスの重要性は、デカルトの著作が出版されることで減少した。その後は、ゴルラエウスはデカルトの更に大胆な自然哲学の先触れといった役割しか与えられないようになった。