スピノザの反逆はいつからはじまったのか Israel, Spinoza

 

 ジョナサン・イスラエルによる新しいスピノザの伝記が出た。伝記の実質的なはじまりである第3章 "Youthful Rebel" は、スピノザの破門の問題を扱っている。そこでイスラエルがまず主張するのは、スピノザが破門を招くような考えを持ちはじめたのは、破門(1656年)よりもかなり前からであるということである。破門は、スピノザが以前から抱いていた考えを55年の後半から公然と主張するようになったために起きたという。この主張は、スピノザが破門を招くような考えを持つようになったのは、破門の前年の1655年からで、その年にアムステルダムにやってきたファン・デ・プラドの影響を受けてのことだという説の否定となっている。

 プラドの影響説はいくつかの難点を抱えているとイスラエルは言う。まず、それはスピノザが突然見解を変えたとすることになる。これはスピノザの性格に合致しないように思える。また、影響はプラドからスピノザではなく、スピノザからプラドの方へではなかったかと思える証拠がある。プラドはこの時期モーセ五書は人間が作成した混乱した文書群だと主張していた。しかしプラドはヘブライ語をほとんど解さなかった。そして、この見解はスピノザと同じである。となると、プラドはスピノザからこの見解を学んだのではないかと思われる。

 イスラエルがプラド影響説を否定する最大の典拠は、『知性改善論』の書き出しである。彼はMigniniとVan den Venの研究にしたがって、この書が現存するスピノザの最初の著作であり、1659年以前に、おそらくはその数年前に(さらにいえば1656年か1657年の前半に)書かれたとみなす。この書の書き出しは次のようなものである。

一般生活において通常見られるすべてのものが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったすべてのものが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した、我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いや、むしろ一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探究してみようと。私はついに決心したと言う。なぜなら、まだ不確実なもののために確実なものを放棄しようとするのは一見無思慮に思えたからである。というのは、私ももちろん名誉や富からいろいろな利益が得られることを知っていたし、またもし私が他の新しいもののために真剣に努力するとなると、それらの利益を求めることから必然的に遠ざからねばならないことも知っていた。だから、その場合、もし最高の幸福がそれらのものの中に含まれているとしたら、私はその幸福を失わなければならないことが明らかであった。だがもし実はそれらのものの中には含まれていないのに、ただそれらのためにばかり努力するとしたら、私はやはり最高の幸福を欠くことになる。そこで私は、私の生活の秩序と日常のやり方とを変えずに新しい計画を遂げることが、あるいは少なくともそれに関して確かな見込みをつけることがもしや可能ではないかどうかを心に思いめぐらして見た。しかししばしば試みたにもかかわらず、それは無駄であった*1

 イスラエルはこの文章を、スピノザが破門以前の自分の状態を回顧したものだと理解する。「名誉や富」とは彼の父親が商会を経営することによって蓄えてきたものである。これを捨て去ることは難しい。しかし「真の善」が存在するかどうかの探究にも着手したいこのジレンマの中でスピノザは、「私の生活の秩序と日常のやり方を変えずに」、つまり商会の経営に携わったまま、「新しい計画を遂げる」、つまり真の善の探究に従事することを幾度か試みてきた。しかしこの両立の試みはうまくいかなかった。しかし、このジレンマは思わぬ仕方で解消されることになる。商会の経営が1654年から56年にかけて危機に陥るのである。このため、1655年から56年にはスピノザは「名誉と富」の誘惑から解放され、「新しい計画」に専念することを「ついに決心した」。こうして、彼は長年の考えを表明し、そのため破門を招いたのである。

 イスラエルがプラド影響説を否定するもう一つの大きな根拠は、スピノザの『遺稿集』に友人であるイェレスが寄せた序文である。そこには次のように書かれている。

スピノザは]若いころから書物によって育てられてきた。そして青年時代には長年にわたって神学に取り組んだ。しかしその後、精神が成熟し、事物の本性を探求するのに適した年齢に達すると、哲学に専念した。その際、教師たちも、またこれら[神学と哲学という]諸学問について書いた著述家たちも、彼を満足させなかった。しかし彼は知ることに対するこの上もない愛に燃え上がっていた。このため彼は、それらの学問[神学と哲学]において自分の精神の力が何をなし遂げられるかを試そうと決心した。この目標を追求するにあたって、高貴にして最高の哲学者であるルネ・デカルトの哲学著作が大いに彼の助けとなった。したがって、あらゆる種類の仕事と為すべきことに対する気遣い(これらは真理の探究をたいていは妨げるものである)から自らを解放した後に、友人たちによって自身の省察が乱されることがないように、彼はそこで生まれ教育を受けたアムステルダムを後にした。そして最初にレインスビュルフに、次にフォービュルフに、そして最後にハーグに住んだ。そこで1677年3月の9日前[2月21日]に結核のためにこの世を去った。44歳を過ぎた後のことであった*2

 これによると、スピノザは破門される(つまりアムステルダムを後にする)前にヘブライ語とラビ文献の研究を行っていた。また、スピノザは破門される前から教師たちや、ユダヤ人共同体で読まれている書物に満足できていなかった。これらの記述は、破門の前年に突然スピノザがプラドの影響で新たな見解を持ちはじめたという説と合致しない。

 このイェレスの記述に沿うことで、プラド影響説のもう一つの難点も免れることができる。もしプラドの影響によりスピノザが1655年に伝統的なユダヤ教の教えから離反したとすると、それから『知性改善論』の執筆までのわずか数年のあいだに、彼はラテン語デカルトの哲学を修めなければならないことになる。しかし、イェレスの記述は破門のかなり前からデカルト哲学の研究を始めていたと解釈でき、このような難点を生じさせない。

 以上からイスラエルは、スピノザが破門を招くような考えを持ちはじめたのは、破門(1656年)よりもかなり前からであるということであると結論づける。

*1:スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、1968年、11–12ページ。

*2:Spinoza, Opera posthuma (Amsterdam, 1677), sig. *2r–v: "Fuit ab ineunte aetate literis innutritus, et in adolescentia per multos annos in Theologia se exercuit; postquam vero eo aetatis pervenerat, in qua ingenium maturescit, et ad rerum naturas indagandas aptum redditur, se totum Philosophiae dedit: quum autem nec praeceptores, nec harum Scientiarum Auctores pro voto ei facerent satis, et ille tamen summo sciendi amore arderet, quid in hisce ingenii vires valerent, experiri decrevit. Ad hoc propositum urgendum Scripta Philosophica Nobilissimi et summi Philosophi Renati des Cartes magno ei fuerunt adjumento. Postquam igitur se ab omnigenis occupationibus, et negotiorum curis, veritatis inquisitioni magna ex partes officientibus, liberasset, quo minus a familiaribus in suis turbaretur meditationibus, urbem Amstelaedamum, in qua natus, et educatus fuit, deseruit, atque primo Renoburgum, deide Voorburgum, et tandem Hagam Comitis habitatum concessit, ubi etiam IX Kalend. Martii anno supra millesimum et sexcentesimum septuagesimo septimo ex Pthisi hanc vitam reliquit, postquam annum aetatis quadragesimum quartum excessiset."

それでも地球は動いているのか? Livio, "Did Galileo Truty Say ..."

 

 ガリレオに帰される「それでもそれ[地球]は動いている」という言葉がある。この言葉をガリレオは本当に口にしたのだろうか。この問題については重要な研究上の進展が2020年に報告されている。Mario Livioによる下記の記事である。ここではLivioの報告を簡単に紹介することにする。

 「それでもそれは動いている」という言葉をガリレオが口にしたというのは、後世にできた作り話だろうというというのが、かつての共通見解だった。この話が最初に現れるのは、Giuseppe Baretti.という人物が1757年に出版した『The Italian Library』という書物においてである。ガリレオの死後100年以上経過している。

 

 状況を変えたのは、ガリレオ研究者であるAntonio Favaroが1911年に受け取った手紙であった。手紙の差出人は、Jules Van Belleという人物である。Van Belleは自分が所蔵している1643年、ないしは1645年に作成された絵には、ガリレオが描かれており、そこに「それでもそれは動いている」という文言も書かれていると報告した。この絵の作成年はガリレオの死(1642年)にきわめて近い。だとすると、この言葉はガリレオの死の直後から彼に帰されていたことになり、信憑性が高いのではないか。こう多くの研究者が考えるようになった。たとえば邦訳もあるS・ドレイクのガリレオ伝では、Van Belle所蔵の絵を根拠に、ガリレオが「この有名なせりふを発したと信じるにたる確かな根拠がある」(『ガリレオの生涯』田中一郎訳、第3巻、共立出版、1985年、452ページ)とされている。

 

 Livioの調査はここからはじまる。彼が気がついたのは、これほど重要な証拠であるにもかかわらず、Van Belle所蔵の絵を科学史家や美術史家が見たという報告は1912年以降なされていない。そもそもこの絵がどこにあるのかももはや分からないということである。

 

 まずLivioはVan Belleが問題の絵を1933年にベルギーのMuseum Vleeshuisに貸したことをつきとめる。さらに、その絵とほとんど同じ絵がやはりベルギーのStedelijk Museum Sint-Niklaasに所蔵されているということを発見する。この後者の絵は1837年にRomaan-Eugeen Van Maldeghemという画家が作成したものであると記録されている。実際、Van Maldeghemが「牢獄の中のガリレオ」という絵を描いたという報告が、1842年と1859年になされている。この報告の時期にVan Maldeghemはまだ存命であった。だとすると、Van Maldeghemの1837年の絵がオリジナルであり、Van Belle所蔵の絵はそのコピーである可能性が高まる。さらにいうと、ガリレオと異端審問所の衝突が画家たちのあいだで人気のあるモチーフになったのは、19世紀に入ってからであった。

 

 Livioは最終的に2007年にVan Belleの子孫が問題の絵を競売にかけていたことをつきとめる。オークションハウスはその絵の写真をとっていた。その写真は、複製として残されているVan Belleの絵と同一である(記事冒頭にある写真が、オークションハウスによる写真である)。この絵を競売で入手したのは、個人の収集家である(誰かは教えてもらない)。

 

 Livioの調査結果を整理するとこうなる。ガリレオが「それでもそれは動いている」と言ったということの証拠となってきた絵とほぼ同じ絵がある。この絵は1837年にVan Maldeghemが作成したとされており、実際に彼の存命中に彼が「牢獄の中のガリレオ」という絵を描いたという報告がある。一方、Van Belle所蔵の絵は2007年に競売にかけられ、現在は個人が所蔵している。

 

 調査を完全なものとするためには、現在個人が持っているであろうVan Belle所蔵の絵が調査され、その作成年代が特定されなければならない。しかし現段階の調査からは、Van Belle所蔵の絵は、1837年にVan Maldeghemが作成した絵のコピーである可能性が高いと言える。このため、ガリレオが「それでも地球はうごいている」という言葉を発したという逸話の初出は1757以前には遡ることができない。そのため回答は最初に戻る。ガリレオがこの言葉を発したというのはおそらく後世の創作である。

 

 

古代哲学における三位一体の理解と、改革派神学 Muller, Post-Reformation Reformed Dogmatics

 

  • Richard A. Muller, Post-Reformation Reformed Dogmatics: The Rise and Development of Reformed Orthodoxy, Ca. 1520 to Ca. 1725, 2nd ed., 4 vols. (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2003), 4:159–162.

 Mullerの大著から、古代哲学のうちに三位一体の教義の理解が見られるという考えに対して、改革派の神学者がどう対応したのかを解説した箇所を読む。

 改革派の神学者たちはしばしば、古代の異教哲学者たちの著作のうちに、曖昧な形であれ三位一体の理解が記されているかという問題を論じた。そのような代表例は、プラトンプロティノス、プロクロスの著作のうちにある三つ組(triad)であり、パルメニデスのtrinity[これについては、プロティノスが語っているらしい]、そして『ヘルメス文書』における最高の神性からの精神と言葉の流出である。

 ピューリタンのなかではMantonが、プラトンや『ヘルメス文書』にある三位一体への曖昧な言及は、ユダヤ人との接触から生み出されたものか、あるいは後世になってキリスト教徒によって挿入されたものだと主張した。Ridgleyもまた、プラトンプラトン主義者たちの著作にある三位一体への曖昧な言及は、自然の光から生じたものではなく、プラトンがエジプトに行った際にユダヤ人と接触したことから生まれたものだと主張した。

 これに対してSamuel Parkerは、プラトンヘブライの知恵を知っていたということを疑い、そもそもプラトン的な三つ組とキリスト教の三位一体のあいだには何ら類似性はないと主張した。というのも、プラトン的な三つ組では、それらの間に上下関係があるのに対して、キリスト教の神の各位格は本質を共有しており、それらのあいだには上下関係がないからである。Galeもまた、プラトン的な三つ組を三位一体と同一視するべきではないとし、さらにアレクサンドリアのキュリロスを引きながら、プラトンのモデルはアリウス主義を招き寄せると警鐘を鳴らした。結論としてGaleは、Cudworthのようにプラトン主義とキリスト教の三位一体を調和させようという試みは危険であるとした。

 Ridgleyは、反三位一体論者による「三位一体の教義は理解不能である」という批判に答えるために、プラトンを援用することに異議を唱えた。彼はそのような試みをPierre Huetの『理性と信仰の調和(De concordia rationis et fidei)』のうちに見い出していた。Ridgleyは、そのような試みはキリスト教の信仰の単純さを、哲学を混ぜ合わせることによって損なうとした。また、神の力、善性、そして知恵を三位一体の位格に重ねることは、それ以外の神の完全性もまた位格として考えうることになるため、位格の数を3つに制限し損なうとした。さらに、人間の霊魂や自然界にある光や熱とのアナロジーから三位一体を理解することも批判した。それらの例は結局、全体のなかに3つの部分があるという例であり、三位一体の理解に資するものではないのである。

 17世紀末から18世紀にかけての理性主義の時代以前には、三位一体の教義が啓示に訴えかけることなく理性的に証明されうるという考えはなかった。この点で、神秘主義的なデカルト主義哲学者であるPoiretが三位一体の教義は理性的に理解しうるとしたのは特筆に値する。ただしPoiretは改革は神学の正統派ではなかった。

Vickers, Invocation and Assent #2

  • Jason E. Vickers, Invocation and Assent: The Making and Remaking of Trinitarian Theology (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2008), 58–67.

 順番が少し前後するけれど、Vickers本のまとめの続きである。

 1630年代からソッツィーニ主義の文献がイングランドで広まりはじめた。理性に基づいて聖書を読むというソッツィーニ主義の方針は、ChillingworthやLaudの方針と似ていた。事実Chillingworth, Tillotson, Stillingfleetらは、ソッツィーニ主義者として批判された。

 しかし、彼らが実際にソッツィーニ主義者のように三位一体を否定していたわけではない。そもそも彼らはソッツィーニ主義の反三位一体論の議論の詳細を知らなかった。当時はソッツィーニ主義の文献を入手することは困難だったからだ。

 80年代の中盤から後半にかけて状況が変化した。宗教上の自由と寛容を認める傾向が強まり、86年以降ソッツィーニ主義の文献が大量に出版された。

 これを受けてカトリック神学者たちは、プロテスタントをソッツィーニ主義と関連付ける効果的な論法を見出した。理性に反するからという理由で実体変化を拒絶するプロテスタントの主張は、最終的に三位一体の否定につながることをソッツィーニ主義は立証しているというのである。この批判を受けて、プロテスタント神学者たちは反三位一体論と対峙せざるを得なくなった。その帰結が1690年代の三位一体をめぐる論争である。

 これを読むとVickersは、やはり80年代に明確な転換点を見ているようである。90年代の三位一体論争も、直接的にはこの転換点の帰結として捉とらえている。

悪霊としての情念はなぜ有益でもあるのか 大貫隆「ストアの情念論とグノーシス」

 

 

 文献学の精髄のような見事な論文を読む。

 4つある『ヨハネのアポクリュフォン』の写本のうちの一つ(NHC II, 1)に、その写本にだけ挿入された部分がある(「大挿入」と呼ぶ)。そこにはストア派の様々な理論、とりわけ情念論を悪霊論に読みかえて貶めていく箇所がある。その中に、悪霊から情念が生み出されるとした後に、それら情念について次のように述べる箇所がある。

さて、これらすべては有益なるものの種族に属すると共に、悪しきものの種族にも属する。しかし、彼らの真理に対する洞察はアナ[イオー]、とはすなわち、物質的魂の頭である。なぜなら、それらはウークエピプトエー(Ouch-Epiptoe)の7つの知覚だからである。(195ページ)

 ここの「これらすべては有益なるものの種族に属すると共に、悪しきものの種族にも属する」という記述は、議論を呼んできた。なぜなら、「これら」というのは悪霊としての情念であるから、それが「悪しきものの種族」に属するのはいいとして、「有益なるものの種族に属する」というのは不自然だからである。

 この記述を解釈するにあたり、著者はまず「悪霊」と「物質」という言葉が『ヨハネのアポクリュフォン』の中でどう使われているかに着目する。まず「悪霊」という言葉は、同書の中で上記の引用箇所の周辺に集中して現れる。次に「物質」という言葉が上記箇所とその周辺に現れるのは『ヨハネのアポクリュフォン』の流れからは不自然である。なぜなら、話の筋の上では、物質が話題になるのはそれ以後のことだからである。ここから著者は、上記の引用部とその周辺箇所は、大挿入の中にさらに事後的に付け加えられた挿入(「大挿入中の挿入」)であると結論づける。

 ではこの大挿入中の挿入を施した人物はどうして、「これらすべては有益なるものの種族に属すると共に、悪しきものの種族にも属する」と書いたのだろうか。まずこの理解は、古ストア派の情念理解とは一致しない。古ストア派は、情念を魂の指導的部分がかかる病として情念を捉え、それを根絶してアパシーにいたることを目指していた。これは情念を「有益なるものの種族に属する」という理解とは相容れない。

 だとすると、大挿入中の挿入を施した人物の理解の源泉はどこにあるのか。手がかりは、この人物が情念論を論じるにあたり、「ゾーロアストロスの書」という資料を使っていることを明示している点にある。この資料に情念を有益とする理解があったのかもしれない。残念ながらこの資料は残存していない。しかし別の資料のうちに、ストア派の情念論に依拠しながら、情念の有益性も肯定した論述があれば、それと類似した議論を「ゾーロアストロスの書」が展開していたという仮説が立てられる。

 そのような資料は存在する。『十二族長の遺訓』のなかの「ルベンの遺訓」である。そこにあるとある挿入部分は、ストア派の情念を霊と読み替え、それを「誤らせる霊」と「別の霊」(基本的にはよい働きをする霊)に分類している。これは、情念を「有益なるものの種族に属する」とする大挿入中の挿入の記述と類似しているだけでなく、情念を霊として神話的に読み替える点でも、情念を悪霊と読み替える大挿入中の挿入の記述と類似している。

 著者の仮説は、おそらく大挿入中の挿入を行った人物が手にしていた「ゾーロアストロスの書」でも、「ルベンの遺訓」の挿入部と同じような理解が示されていたというものである。

 以上から大挿入中の挿入にある「これらすべては有益なるものの種族に属すると共に、悪しきものの種族にも属する」について、いくつかの結論を引き出すことができる。まずこの記述を、大挿入の他の箇所の記述と整合的に読もうとする試みには意味がない。なぜなら、この記述は大挿入にさらに挿入された部分に現れ、しかもその挿入を施した人物は、挿入によって生じた議論展開上の不整合に無頓着だからである。また、この記述を校訂によって読み替えるべきではない。それは直前の議論とも古ストア派の理論とも整合的ではないものの、挿入を施した人物が手にしていた「ゾーロアストロスの書」に根拠があった可能性が高いからである。

 最後に著者は、大挿入中の挿入を行った人物のストア派批判の内実を明らかにする。この人物は、ストア派の挙げる情念を悪霊と読み替えた。しかしそれだけではまだストア派に対する貶めとはならない。それが行われているのは、「なぜなら、それらはウークエピプトエー(Ouch-Epiptoe)の7つの知覚だからである」という部分である。この「ウークエピプトエー」は、「動揺していない状態での知覚」というギリシア語からつくられている。これはストア派が達成目標としたアパシーの状態である。これが大挿入中の挿入部分では、悪霊の母とされ、しかも「物質」であるとされている。物質とはグノーシス主義では「悪の原理」(228ページ)である。つまりここでこの人物は、ストア派が情念の根絶の結果得られるとしたアパシーの状態こそが、実は悪霊としての情念の母であり、悪の原理であるとしているのである。

 ここから著者は次のように結論する。

彼[大挿入中の挿入を施した人物]はストアの情念論が情念を否定的に評価していることに異議を唱えているのではなく、そのストアの情念論が情念を際立って主知主義的に定義していることに痛烈な異議を唱えているのである。(228ページ)

 この論文の中でこの記述だけが私(坂本)には理解できなかった。まず「ストアの情念論が情念を際立って主知主義的に定義していること」がどういうことなのかが、手がかりとなる記述がある(213–214ページ)にもかかわらず、この論文からは理解できなかった。また、「動揺していない状態での知覚」というストア派の理想を貶めていることが、ストア派に対する攻撃になっているのは分かるものの、それが大挿入中の挿入を行った人物にとって「ストアの情念論が情念を際立って主知主義的に定義していること」への「痛烈な異議」として果たして理解されていたのかと言えるのかも疑問に思った。これが言えるためには、その人物もまた「ストアの情念論が情念を際立って主知主義的に定義していること」を理解していなければならない。このような理解がこの人物にあったといえるのか。この人物の知的水準からして、それは言えない可能性も高いのではないかと思えた。

神への呼びかけとしての三位一体 Vickers, Invocation and Assent

 

 

  • Jason E. Vickers, Invocation and Assent: The Making and Remaking of Trinitarian Theology (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2008), 1–23.

 キリスト教の信仰の規範(the rule of faith)は興味深い形をしている。それはみな三位一体について言及しているのである。このような規範はどう形成されたのか。

 これに対してプロテスタント神学者のある者たちは次のように答えてきた。信仰の規範は聖書から取られて来たというものである。この理解は彼らの初期教会についての2段階理論に対応している。それによると、教会は当初の純粋で「聖書的な scriptural」段階から、神学論争とそれに伴うキリスト教のヘレニズム化を経ての、堕落した「信条的な creedal」段階へと至ったのだという。信仰の規範は、この2番目の段階において、神学論争の中で、聖書から抽出される形で形成されたとされる。

 この見解に対してJ. N. D. Kellyは、最終的に信仰の規範に取り込まれ、ニカイア信条にも含まれることになるような、三位一体に言及する信仰の告白が生まれ、その役割を果たしてきたのは、元来は神学論争においてではなく、むしろ洗礼、教義口授、説教、典礼、悪魔祓いの活動においてであったと主張した。

 これらの活動のなかで三位一体に言及する信仰の告白が果たした役割は、まず例えば洗礼を受ける者が三位一体の神に呼びかけることで、その者が他の神ではなく、まさにキリスト教の神に呼びかけていることが保証されるということがあったと考えられる。また、キリスト教の神に三位一体の形式で呼びかけることは、イエス聖霊を通じて、かつても、そして今も信仰ある者の罪を許し、その再生を果たさせてくれる神へ呼びかけるということであった。だからこそ、悪魔祓いの際に三位一体の神への呼びかけがなされたのである。

 ここから分かる通り、三位一体への当初の関心というのは、たとえば3つの位格間の関係について学的なものではなく、むしろ神が人間の救済のために何をしてくれているのかにあった。これはCatherine Mowry LaCugnaが、三位一体の信仰告白は「救済の理法の形而上学」に何よりも関わっているのであり、「『神学』の形而上学」に第一に関わっていたのではないと論じたことと関係している。

 

 

Sherlockの三位一体論とその批判 McCall and Stanglin, After Arminius

  • McCall and Stanglin, After Arminius, 74–81.

 17世紀末のイングランドでの三位一体を巡る論争についての記述を読む。イングランドアルミニウス主義者たちは、伝統的な三位一体の教義の理解を改めようとしていたと考えられることが多い。しかし状況は複雑であり、アルミニウス主義者の中には伝統的な見解を保持しようとした者たちもいた。そのような者の中には、伝統的な教義を新たな哲学の用語を使って守ろうとした者もいたし、より古くからのやり方で守ろうとしたものもいた。このことは17世紀の末に起こり、18世紀の最初数十年の間続いた、三位一体を巡る論争を検討すれば分かる。

 アルミニウス主義者のWilliam Sherlockは、Stephen Nyeらによる三位一体の教義への攻撃に対抗するために、新たな形而上学に訴えてその教義を擁護した者の一人である。SherlockはNyeが指摘するような三位一体の教義がはらむ矛盾というのは見せかけのものに過ぎないと考えた。確かにその教義は神秘ではあるものの、そこに不合理は含まれていない。

 Sherlockは位格の三位相互内在性(perichoresis, circumincession)を、次のように説明した。無限の精神(infinite mind)である神のうちには、三つの自己意識がある。しかしこれらの自己意識はまったく同じ意識の内容を共有しているので、その本質は同じである。ここから位格が3つ、本質が1つが帰結する。彼がデカルト的な実体とペルソナの理解をしていたことは明らかである(これと彼がデカルトを読んでそこから影響を受けたかは別問題である)。

 Sherlockに対しては、ユニタリアンからも伝統的な改革派神学の側からも批判が向けられた。ユニタリアンのNyeは、Sherlockの立論には矛盾が含まれていると批判した。一方伝統的な改革派神学を奉じるRobert Southは、Sherlockの学説の出処をデカルトの哲学と断定した上で、もしSherlockのように自己意識が位格の区別の結果ではなく、原因であるとすると、ネストリウス主義、ないしは養子論が帰結すると批判した[なぜそうなるのかはよく分からない]。論争は続き、1690年代の半ばにはオックスフォード大学の大学副総長が、Sherlockの立場を否定し、論争を注意するように求めたほどで合った。しかし論争は終わらなかった。