悪霊としての情念はなぜ有益でもあるのか 大貫隆「ストアの情念論とグノーシス」

 

 

 文献学の精髄のような見事な論文を読む。

 4つある『ヨハネのアポクリュフォン』の写本のうちの一つ(NHC II, 1)に、その写本にだけ挿入された部分がある(「大挿入」と呼ぶ)。そこにはストア派の様々な理論、とりわけ情念論を悪霊論に読みかえて貶めていく箇所がある。その中に、悪霊から情念が生み出されるとした後に、それら情念について次のように述べる箇所がある。

さて、これらすべては有益なるものの種族に属すると共に、悪しきものの種族にも属する。しかし、彼らの真理に対する洞察はアナ[イオー]、とはすなわち、物質的魂の頭である。なぜなら、それらはウークエピプトエー(Ouch-Epiptoe)の7つの知覚だからである。(195ページ)

 ここの「これらすべては有益なるものの種族に属すると共に、悪しきものの種族にも属する」という記述は、議論を呼んできた。なぜなら、「これら」というのは悪霊としての情念であるから、それが「悪しきものの種族」に属するのはいいとして、「有益なるものの種族に属する」というのは不自然だからである。

 この記述を解釈するにあたり、著者はまず「悪霊」と「物質」という言葉が『ヨハネのアポクリュフォン』の中でどう使われているかに着目する。まず「悪霊」という言葉は、同書の中で上記の引用箇所の周辺に集中して現れる。次に「物質」という言葉が上記箇所とその周辺に現れるのは『ヨハネのアポクリュフォン』の流れからは不自然である。なぜなら、話の筋の上では、物質が話題になるのはそれ以後のことだからである。ここから著者は、上記の引用部とその周辺箇所は、大挿入の中にさらに事後的に付け加えられた挿入(「大挿入中の挿入」)であると結論づける。

 ではこの大挿入中の挿入を施した人物はどうして、「これらすべては有益なるものの種族に属すると共に、悪しきものの種族にも属する」と書いたのだろうか。まずこの理解は、古ストア派の情念理解とは一致しない。古ストア派は、情念を魂の指導的部分がかかる病として情念を捉え、それを根絶してアパシーにいたることを目指していた。これは情念を「有益なるものの種族に属する」という理解とは相容れない。

 だとすると、大挿入中の挿入を施した人物の理解の源泉はどこにあるのか。手がかりは、この人物が情念論を論じるにあたり、「ゾーロアストロスの書」という資料を使っていることを明示している点にある。この資料に情念を有益とする理解があったのかもしれない。残念ながらこの資料は残存していない。しかし別の資料のうちに、ストア派の情念論に依拠しながら、情念の有益性も肯定した論述があれば、それと類似した議論を「ゾーロアストロスの書」が展開していたという仮説が立てられる。

 そのような資料は存在する。『十二族長の遺訓』のなかの「ルベンの遺訓」である。そこにあるとある挿入部分は、ストア派の情念を霊と読み替え、それを「誤らせる霊」と「別の霊」(基本的にはよい働きをする霊)に分類している。これは、情念を「有益なるものの種族に属する」とする大挿入中の挿入の記述と類似しているだけでなく、情念を霊として神話的に読み替える点でも、情念を悪霊と読み替える大挿入中の挿入の記述と類似している。

 著者の仮説は、おそらく大挿入中の挿入を行った人物が手にしていた「ゾーロアストロスの書」でも、「ルベンの遺訓」の挿入部と同じような理解が示されていたというものである。

 以上から大挿入中の挿入にある「これらすべては有益なるものの種族に属すると共に、悪しきものの種族にも属する」について、いくつかの結論を引き出すことができる。まずこの記述を、大挿入の他の箇所の記述と整合的に読もうとする試みには意味がない。なぜなら、この記述は大挿入にさらに挿入された部分に現れ、しかもその挿入を施した人物は、挿入によって生じた議論展開上の不整合に無頓着だからである。また、この記述を校訂によって読み替えるべきではない。それは直前の議論とも古ストア派の理論とも整合的ではないものの、挿入を施した人物が手にしていた「ゾーロアストロスの書」に根拠があった可能性が高いからである。

 最後に著者は、大挿入中の挿入を行った人物のストア派批判の内実を明らかにする。この人物は、ストア派の挙げる情念を悪霊と読み替えた。しかしそれだけではまだストア派に対する貶めとはならない。それが行われているのは、「なぜなら、それらはウークエピプトエー(Ouch-Epiptoe)の7つの知覚だからである」という部分である。この「ウークエピプトエー」は、「動揺していない状態での知覚」というギリシア語からつくられている。これはストア派が達成目標としたアパシーの状態である。これが大挿入中の挿入部分では、悪霊の母とされ、しかも「物質」であるとされている。物質とはグノーシス主義では「悪の原理」(228ページ)である。つまりここでこの人物は、ストア派が情念の根絶の結果得られるとしたアパシーの状態こそが、実は悪霊としての情念の母であり、悪の原理であるとしているのである。

 ここから著者は次のように結論する。

彼[大挿入中の挿入を施した人物]はストアの情念論が情念を否定的に評価していることに異議を唱えているのではなく、そのストアの情念論が情念を際立って主知主義的に定義していることに痛烈な異議を唱えているのである。(228ページ)

 この論文の中でこの記述だけが私(坂本)には理解できなかった。まず「ストアの情念論が情念を際立って主知主義的に定義していること」がどういうことなのかが、手がかりとなる記述がある(213–214ページ)にもかかわらず、この論文からは理解できなかった。また、「動揺していない状態での知覚」というストア派の理想を貶めていることが、ストア派に対する攻撃になっているのは分かるものの、それが大挿入中の挿入を行った人物にとって「ストアの情念論が情念を際立って主知主義的に定義していること」への「痛烈な異議」として果たして理解されていたのかと言えるのかも疑問に思った。これが言えるためには、その人物もまた「ストアの情念論が情念を際立って主知主義的に定義していること」を理解していなければならない。このような理解がこの人物にあったといえるのか。この人物の知的水準からして、それは言えない可能性も高いのではないかと思えた。