ここ何日かのあいだ、修士2年生の人が日本学術振興会(学振)に提出する申請書について、多少コメントをしています。とはいえ私が見せてもらっているのは2人分の書類だけですし、その2人にしても、専門分野が異なるのでたいしたことはできていません。なによりも、2人とも去年の私よりはるかに内容のある申請書を書いていますし。
というわけで、日本学術振興会に提出する申請書について、私のほうから何か生産的なアドバイスをするのはどうもできないようです。とはいえ、いちおう去年書類を書き、今年も2つの書類に目を通したので、いくつかの一般論は言えそうな気がしないでもありません。そこで、申請書の書き方について思うところを、以下で少し書いてみたいと思います。
なお、以下の記述は人文科学を専攻する人向けに書かれています。社会科学や自然科学を専攻する人には、また別のアドバイスが有効だと思うので注意してください。
文章は分りやすく書く
トゥキュディデスになってはいけない。
読み手に負担をかけない文章を書きましょう。審査員はおそらくたくさんの書類を読まされているので、内容以前に文章自体が難解な書類には、不快感を持つと思います。
文レベルでの具体的な方針としては、
- 一文一文を短くする。
- 助詞の「が」を多用しない。
- 意味のない推定表現を使わない(「であろう」、「となろう」、「と言えよう」など)。
あたりが挙げられると思います。
特に「が」の使用には注意した方がよいです。読書量が多く、日本語に堪能な人ほど、「が」を使ってしまう傾向にあるように思えるので。
複数の文における構造レベルでは、
- 長すぎる段落をつくらない。
- 段落の冒頭文に当該段落で述べたいことを書き、以下は冒頭文の具体説明に当てる。
- 文章と文章のあいだの論理的つながりを明示する。つまり、接続詞を入れる。
といった点に注意するとよいと思います。
専門的な内容にしすぎない
アリストテレスになってはいけない。
専門用語が多用されると、専門分野が少しでも違う人は理解できなくなってしまいます。かといって、まったく専門用語を使わずに研究計画を述べることは不可能です。そのため、どの程度まで専門的な内容にするかというのは、一番の悩みどころになります。
私としては、「専門用語を使って、図式的に書く」というのが有効だと思います。研究対象となる文学作品や哲学書には、単純な理解を許さず、細かく腑分けした議論が必要になる箇所が必ずあります。しかし、そういう細かいところにまで気を配った申請書を書いても、分りにくくなるばかりです。専門が完全に重ならない限りは、審査員に理解されません。
だから、専門用語の内容を簡単に説明した後は、その用語を使って図式的な議論を展開するのがよいと思います。分りやすさのために正確さが犠牲になるのはやむをえません。
うーん。こんな一般論では何も分りませんね。要するに、専門は違うけれども、理解力はしっかりしている学生や教員に理解されないようなものを書いてはダメ、ということです。理解可能なものを自分が書けているかを確かめるためにも、申請書を人に見てもらうことが大切だと思います。
大げさに書かない
「大げさに書く」というのは、具体的には以下のような記述を指します。
- 現代は多様な価値観の共存が求められる時代である。このような時代に適合した倫理を構築するためにも、アリストテレスの思想における当該概念の解明は不可欠である
この手のことは、書いたからといって減点にはならないはずです。しかし、加点にもならないと思います。要するにスペースの無駄になります。
アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンは、どうして著作の主題としてポストモダニズムを取り上げるのか、より重要な主題があるのではないか、という疑問に対して次のように答えています。
そもそも、これは奇妙な質問だといわざるをえない。
たとえば、ある人がナポレオンの史実に関連した文書を発見し、それについての本を書くとしよう。いったい誰が、それは第二次世界大戦よりも重要な課題なのかと尋ねるだろうか?
その人の場合も、われわれの場合も、答えは同じだろう。
あるテーマについて誰かが本を書くのは、十分な能力があり、そして、何らかの新しい寄与ができるという二つの条件が整ったときである。
よほど運がよくない限りは、そうして書く本のテーマがこの世界で最も重要な問題と一致するということはないだろう。(『「知」の欺瞞』、21頁。改行、強調引用者)
というわけで、自分の課題を人類にとって重要な課題と無理につなげるのは控えましょう。力を注ぐべきは、申請者が当該分野において新たな知見を付け加えることができることを明確にすることだと思います。
ただ、この点については私と異なる意見を持つ人もいます。
具体的に書けるはずがないけど、具体的に…
(続くかも…)