アリストテレスのミクロコスモス?

 アリストテレスは『自然学』8巻2章で「運動は以前にはまったく存在しなかったのにいつかそんざいするようになるということ」があると思わせるような論点を3つ挙げています。このうちの3番目のものは動いていなかった生物が動き出すという事実です。この生物におこる事態が宇宙規模でも成り立ちうるのではないかという推論を紹介して、アリストテレスは次のように書いています。

そして、もし動物においてこのことのおこることが可能であれば、同じことが全宇宙においてもおこることになって何の妨げがあろうか。というのは、もし小宇宙においておこるならば、大宇宙においてもおこり、また、もしこの特定の世界において起こるならば、無限なものにおいてもおこりうるであろうから―もし無限なものが、全体として、運動したり静止したりすることができるものとすれば。

ここでアリストテレスは動物を小宇宙として、この宇宙全体を大宇宙と読んでいます。ここから後に有名となるミクロコスモス、マクロコスモスの区別をアリストテレスも支持していたと思われるかもしれません。実際哲学の歴史のなかではそのように考えた人もいました。

 しかし上の文章が書かれた文脈を考えなければなりません。これは「かつてなかった運動がいつかあるようになる」という学説の根拠として提出されているものです。しかし実際にはこの学説と根拠はアリストテレスの支持するところではありません。彼によれば運動というのは永遠の過去からあり、これからも永遠に存在し続けるようなものです。そのため上記引用箇所ののちには、この論拠をしりぞけるための議論が続きます。

 それでは仮想敵とされている論拠は誰によるものなのでしょう。アリストテレスはこの点を明確にしていません。しかしそれはデモクリトスのものであるように思われます。その一つの根拠は引用にある「無限なもの」という言葉です。これは宇宙全体よりもさらに規模の大きなものとして考えられています。このような考え方は、無限の原子が無限の数の宇宙世界を形成しているというデモクリトスの原子論とぴたりと符合します。

 それでは動物を小宇宙とみなす考えはデモクリトスにあるのでしょうか。そういう目でディールス、クランツの『ソクラテス以前哲学者断片集』を見ると次のような文章を見つけることができます(68B34)。

宇宙においてわれわれは、もっぱら支配するだけのもの(例えば神的存在)を見、また、支配もすれば支配されもするもの―例えば人間的存在(というのも、これらは神的なものからの支配を受け、理性を持たない動物を支配するからである)―を見、さらにまた、理性を持たない動物のようにもっぱら支配されるだけのものを見るが、ちょうどそのように、デモクリトスが言うところの「小宇宙である人間」においても以上のことが見てとられる(ダヴィッド)。

しかし、自然に関して精通した往古の人びとは、動物も何か「小宇宙」のようなものであると語っている(ガレノス)。

最初の箇所では人間が小宇宙と言われています。二番目の箇所はデモクリトスを名指していないものの、最初の引用と冒頭のアリストテレスからの引用との符合とを考えあわせるならば、デモクリトスについて述べた断片として分類したディールスの判断は正しいのでしょう。

 アリストテレスが『自然学』で動物、ないしは人間を小宇宙としてとらえているということはありません。それはデモクリトスの立場を彼が要約する際に使われた術語にすぎないのですから。しかし同時に『自然学』という極めて重要な文書の中にあたかもアリストテレス自身が支持しているようなかたちで小宇宙という言葉が使われていることは、後世のアリストテレス主義者たちにおおきな誘惑を与えました。しかしそちらについてはまた機会を改めて。