アヴィセンナにおけるミニマと連続体 McGinnis, "A Small Discovery"

 研究史上軽視されてきたアヴィセンナのミニマ・ナトゥラリア(minima naturalia; 自然の最小者)の理論を検証する論文である。この理論の起源は、アリストテレス『自然学』1巻4章にある(187b13-21)。

さらに、そのものの部分が、その大きさにおいて小ささにおいても、どのようなものででもありうるようなものの場合には、そのもの自ら[すなわちその全体]もまたそうしたものでありうることは、必然であるが(ただし、ここに「部分」と言うのは、それらにまで全体が分割されうるところのそれらのことであり、この全体のうちに含まれているところのそれら[内在的構成要素]のことであるが)、もしこのことが必然であるとすれば、しかも本当に動物や植物がその大きさ小ささにおいてどのようなものででもありうるということの不可能なものであるとすれば、それらの部分もまたそのようなものではありえないことは、明白である。なぜなら、もしその部分がそうでありうるとしたなら、全体もまた同様にそうであるはずだから。しかるに、肉や骨やその他そのようなものは動物の部分であり、果実は植物の部分である。だから明らかに、肉や骨やその他そうした或るものは[したがってアナクサゴラスの言う無数の原理も]、より大の方向にせよ、より小の方向にせよ、その大きさがどのようなものででもありうるということは不可能である(出、岩崎訳)。

最後の文からわかるように、アリストテレスはあるものがあるものであり続けることができる最小の大きさがあると論じている。この議論に形相の概念を導入したのが、ギリシア人注釈家の一人であるフィロポノスである。彼によると、ある形相の存続が不可能となるような最大の大きさと最大の小ささがある。というのも大きくなりすぎると、物体の全体に広がっている形相が「希薄化する」からである。一方なぜ一定以上小さくなると形相が存続できないかという点については、フィロポノスは説明を与えていない。

 だがフィロポノスは一つの解釈上の難点に直面していた。というのもアリストテレスは『自然学』6巻で大きさが原子からなるということを否定して、あらゆる大きさは連続的であり、それゆえ無限に分割可能だと論じているからである。あらゆる大きさが無限に分割可能ということと、ミニマが存在するということは矛盾ではないか。この矛盾を解消するため、フィロポノスは、物体は大きさだけで考えるなら確かに無限に分割可能だが、形相も考慮するならある形相がそれ以上は残れなくなる大きさの段階があると論じた。

 アヴィセンナは同じ問題に、概念上の分割と自然的な分割という区別をもって答えた。アヴィセンナによれば、連続体とはそのうちにいかなる部分(たとえば互いに異なる部分Aと部分B)を持たないような大きさである。これは概念的に無限に分割可能である。概念的にというのは私たちが、それを魂のうちで際限なく分けていくことができるということである。こうして連続体の無限分割性は保持される。この点を守り抜くことは、当時神学者が主張していた原子論に対抗していたアヴィセンナにとって重要であった。

 では自然的な分割についてはどうだろうか。自然的な分割とは実際に事物を分割することを意味する。この意味で連続体は無限に分割可能なのだろうか。まず連続体を大きさの側面からみた場合、それは自然的に無限に分割可能である。連続体の質料も、またそれに延長を与えている物体性の形相(forma corporeitatis)も、それが無限に分割されることをさまたげない。

 だが物体性の形相より上のレベルの形相について、無限に自然的な分割ができるかというと、それはできないとアヴィセンナは考えた。第一に、そのような形相はそれが保持する能力を発揮するために一定の大きさを必要とする。この大きさを下回るような分割は不可能である。第二に、物体は一定以上小さくなりすぎると、周囲の物体からの影響でその物体へと転化してしまう。というのも、小さくなった物体が有する一次性質は、周りの物体が有する一次性質に比べて微弱すぎるため、後者が前者を同化してしまい、この同化が形相の入れ換えを引きおこすからである(この第二の推論の基礎には、アリストテレスが『生成消滅論』1巻10章の混合の箇所でしめしている見解がある)。

 こうして同質的(内部に互いに異なる部分を持たない)な連続体が、無限に分割可能でありながら、ミニマを有するということが証明された。さらにアヴィセンナの理論は、アリストテレスが混合(mixture)に(同質性に加えて)求めた条件をも満たしている。アリストテレスによれば、混合物の特性とは、そこからそれを構成する要素を再抽出できることであるという。これもまたミニマより小さな大きさに混合物が分割されたときに、構成物が再度出現するというかたちで理解することができる。

 以上が論文の骨子である。最後の混交の条件をめぐる主張の根拠はよくわからない。構成要素の再出現を、著者が本論文でしめした議論の筋から導きだすことはできないように思われる。また著者は最後の注で、Abraham Stoneによる「アヴィセンナは混合物中で構成要素が現実態として残存すると認めていた」という(伝統的な)見解を批判している。この伝統的見解をとると、アヴィセンナが考えるような意味での連続体が成立しなくなってしまうからだろう(内部に互いに異なる部分を抱えてしまう)。だがこの問題点をもってして伝統的解釈を覆すところまでいけるかは分からない。さらなる研究が必要である。

 近年のアヴィセンナ研究は、McGinnisの本研究といい、形相付与者をめぐるKara Richardsonの新解釈といい、アラビア語史料の緻密な読解によって、ラテン中世世界が組みあげてきた解釈を覆そうとしている。同種の動向がアヴェロエス研究にもおよんでいることは、Heidrun Eichnerの研究からもうかがえる。それらの研究の主張がどこまで認められいくかはまだ未知数である。果たして現代のアラビストは中世スコラ学者を凌駕することができるだろうか。