初期近代の解剖学 ディーバス『ルネサンスの自然観』第4章

 ディーバスの教科書から、解剖学を扱った部分を読みました。古代のアレクサンドリアで蓄積された解剖学的研究の成果の多くは失われてしまいました。ガレノスの著作が圧倒的な影響力をふるったためです。ガレノスの解剖学、生理学的知見は多くの場合、羊、豚、犬、そしてバーバリザル(アフリカにいるらしい)の解剖による観察を人間にも適用することによって得られたものでした。

 ガレノスのおかした過ちの一つが、心臓の左心室と右心室とを隔てる壁のあいだに小さな孔があいていて、ここを通って右から左へと血液が移動すると考えたことでした。しかしガレノスの生理学は長きにわたって否定されませんでした。古代後期の医学者たちは彼の著作の整理要約に注力しましたし、アラビアの医学の関心は疾病の原因の特定と治療に向けられていました。公開解剖が14世紀から大学ではじまったものの、それは新たな知見を得るための研究目的でされていたのではありませんでした。

 16世紀に入ると人文主義者たち(その中には医師もいる)がガレノスの著作を次々とラテン語に訳しはじめます。こうしてガレノスの解剖学上の重要著作がアクセス可能となりました。ガレノスの翻訳者でもあったパリの医学教授アンデルナッハのヨハネス・ギンターのもとで学んだのがアンドレアス・ヴェサリウスでした。ヴェサリウスは解剖によって得た知見からガレノスの誤りを次々と修正し、最終的には心臓の右心室と左心室をつなぐ孔の存在を否定するに至りました。ヴェサリウスののちに、彼の助手のレアルド・コロンボが肺循環を唱えます。同じ学説がミカエル・セルヴェトゥスによってまったく違う動機から提唱されました。彼は精霊と神の霊が人間にいかに流出するかという関心から、血液とプネウマの循環について論じたのです。ハーヴィの師であるヒエロニュムス・ファブリキウスは静脈弁を見つけたことで知られています。しかし彼はそれを血液循環の方向性を一定にするためのものとは考えませんでした。

 ウィリアム・ハーヴィは1628年の『心臓の運動について』のなかで、血液が心臓によって身体を全体として循環していることをつきとめます。彼にとってはこの人体での循環は宇宙で起こっていることとパラレルでした。太陽が水を蒸発させ、それが空中で冷えて雨として降るというのは、まさに循環です。大宇宙の太陽と、小宇宙の心臓が類比的にとらえられるわけです。ハーヴィはアリストテレス主義者であり、彼の著作を真っ先に擁護したのは「神秘的な宇宙論」をとなえるロバート・フラッドでした。一方、原子論者のガッサンディは、左心室と右心室とのあいだの孔を見たことがあるとして、ハーヴィとフラッドに反対しました。デカルトはまたハーヴィの生気論的な体系を機械論的なそれに置き換えようとしました。

 ヴェサリウスからハーヴィまでの解剖学の歴史を知識の累積的な発展の過程としてとらえることはたしかに可能です。しかしそれは同時に、大学で伝統的であった解剖実習、観察の地位の向上、人文主義者によるガレノステキストの翻訳といった諸文脈のなかでこそ理解されねばなりません。