新しい『リヴァイアサンと空気ポンプ』

Leviathan and the Air-Pump: Hobbes, Boyle, and the Experimental Life (Princeton Classics)

Leviathan and the Air-Pump: Hobbes, Boyle, and the Experimental Life (Princeton Classics)

 1985年に出版された『リヴァイアサンと空気ポンプ』の新版が出されました。著者の二人による新しい序文が加えられる一方で、旧版についていたホッブズの論考の英語訳が削除されています。

 新しい序文で試みられているのは、『リヴァイアサンと空気ポンプ』を歴史的に位置づけようというものです。そのために、この本が書かれた背景を当時の時代状況や、科学史という領域で共有されていた問題意識、さらには著者二人の受けてきた教育・職を得ていた環境といった要素が解説されています。

 時代背景として第二次世界大戦後に巨大科学が進展するなかで、科学の歴史を一人握りの天才的な人間が真理を発見していく過程として分析するのではなく、むしろ知識を人々が共同で生み出す営みとしてとらえようという考えが歴史家の間で広まっていたことが挙げられています。また科学史という分野では当時まだ内的科学史と外的科学史といった分析枠組みがそれなりに有効に機能しており、『リヴァイアサンと空気ポンプ』はこの枠組に対する不満に端を発している部分があるとされています。こうした状況下で、「知識の問題は社会秩序の問題である」という本書の根本的テーゼが生み出されたとされます。このことを17世紀の空気ポンプをめぐる論争の詳細な分析という事例研究を通して示すことで、知識の生産に関して広い範囲で妥当する考察を引き出すことができたとされています。その他にも当時書かれた書評が多く引かれて、出版直後の本書の読まれ方がよくわかるようになっています。

 もう一つ面白い指摘、というかまあ著者たちもやっぱり認めているのね、という点は、『リヴァイアサンと空気ポンプ』が狭義のホッブズ、ボイル研究としては好意的に受け入れられていないことです。序文でボイル研究者による数々の批判が列挙されている箇所はある意味壮観です。

 一方ホッブズ研究者である Leijenhorst からの批判が取り上げられていないのは驚きました。彼の批判は『リヴァイアサンと空気ポンプ』の主張にとって致命傷となりかねないものです。「ホッブズの真空否定の背後に内乱を避けるという動機があったということはない」ということを示して、「知識の問題は社会秩序の問題だ」という本書のテーゼを突き崩しているのですから。新たな序文をつけるならこの手ごわい批判に対する応答をつけて欲しかったというのが率直な感想です。