なぜ霊魂は自分の家をつくる建築家なのか

 博士論文第6章の結論をざっと書いてみました。英語にする段階でいろいろ手を加えなければならないのはともかくとして、基本的にはこの筋でまとめようと考えています。どうでしょうか?

結論

 ライプニッツが正しく見抜いていたように、スカリゲルの発生論は、霊魂がやがて自身が支配することになる身体を構築するという前提に基づいていた。自然発生の場合、天(とりわけ太陽)から与えられた霊魂が腐敗物のなかでネズミやカエルといった下等生物の身体を形成する。他方で多くの動植物は種子を生み出すことによって生まれる。このタイプの発生は種子の中の霊魂を必要とする。この霊魂は親の霊魂が自己増殖したことによって生まれたもので、適切なマトリクスに入ると身体の形成を開始する。一般的な規則への例外が見られるのは人間の発生のケースである。人間の理性的霊魂は最初種子(精液)に宿っていない。それが神によって創造され人間に与えられるのは、身体が別の霊魂によって形成されたあとのことである。残念ながら、スカリゲルはこの先行して身体を構築する霊魂の本性を明確にすることはしなかった。これら三種類の発生のすべてが霊魂を身体形成の執行者(executor)として必要とする。スカリゲルは霊魂はこの仕事をある種の力を行使して行うと考え、それをplastic facultyと呼んだ。この力はそれ自体は非理性的でありながら身体の形成という高度な仕事(operation)を達成する。それは神が霊魂を創造したさいに、それらにこのような仕事を可能とするような指示(あるいは一種のプログラム)を与えたからである。

 スカリゲルの理論は、霊魂とは別の形成的力を想定する伝統的理論と対立するものであった。この点で彼の理論はフェルネルの理論と共通の新規性を有していた。しかし二者の見解もまた別の側面では相容れないものだった。スカリゲルは形相の起源を天に求めるフェルネルの学説を、すべての発生を自然発生とみなす不合理な帰結を招くものと批判した。

 スカリゲルによる新しい発生論の定式化の背後には何があったのか。動機の一つは霊魂の不死性を証明することだった。1513年に第5回ラテラノ公会議は、すべての哲学者は個別的人間霊魂の不死性を証明しなければならないと宣言した。この決定の直後に、ピエトロ・ポンポナッツィが『霊魂の不死性について』を完成させ、そこで理性的議論によっては人間霊魂の不死性は証明できないと主張し、それにより同時代の知識人たちからの多くの反論を呼び起こした。スカリゲルが霊魂を四元素に還元する学説に反論する際の強い調子には、当時のアリストテレス哲学者に働いていた強いプレッシャーが反映されている。彼の物質主義的な霊魂論への反駁は非常に強く、そのため彼は別の極端な立場へと到達した。すなわち、霊魂のみならずあらゆる形相は四元素に還元できず、それゆえ不死である。この主張の帰結として、すべての活動(activity)は元素か形相に由来する。したがってplastic facultyもまた霊魂の能力の一つとして分類されることになる。

 活動を元素と形相由来のものに限定することは、世界中で質料に浸透している共通の力の存在を否定することを意味した。すでに述べたように(§2.2, §2.3)、カルダーノは万物に浸透する能動原理を世界霊魂として措定した。発生に関する議論をカルダーノの世界霊魂論を論駁したのと同じ演習に置くことで、前者の議論もまた普遍的力を前提とする理論へのアンチテーゼとして構想されていたことをスカリゲルは明確にした。しかしここではこの種の学説が古代以来発生の問題に適用されてきたことを思い起こさねばならない。すでにガレノスは『各部位の用途について』でデミウルゴスが天に与えた知性が地上に広がって、それにより身体の形成を可能にしていると述べた。アヴェロエスは天から来る霊魂的熱が身体の形成には必須だと考えた。彼はこの見解をアリストテレスの『動物発生論』中にある、天体の元素と類比的な熱について語ったパッセージに訴えることで正当化した。この伝統的観念からの離反は、『動物発生論』の同箇所の解釈に影響を及ぼした。彼はそれを発生の過程が天に由来する力を必要としていることを意味するのではなく、霊魂が四元素には還元できない第五元素であることを意味すると解釈した。今やいかなる普遍的力も発生には関わらない。必要とされるのは個別的霊魂である。

 これら二つ思考タイプのあいだの緊張関係は17世紀にいたるまで発生の理論を規定し続けた。スカリゲルは種子はすでに動物(animate being)であると断言した。この見解は胚の前成説への道を開くことになる。一方対立するスキームも大きな影響力を持った。このことをよく示すのがウィリアム・ハーヴィの事例である。彼は種子には霊魂は宿っていないと主張しスカリゲルとフェルネルを批判した。彼によれば種子は同質的(homogeneous)な物体であり、器官を備えていない。形成力がこれに働きかけ、器官が形成をする。その時点ではじめて霊魂が現れる。この議論は彼の有名な後成説を支えていた。

 しかしこの対立は発生論の領域を超える帰結を伴った。スカリゲルの『演習』の約20年後に出版された著作の中で、ヤコブ・シェキウスはplastic facultyを霊魂とは独立の力とみなし、それは世界にあまねく浸透していると考えた。この概念は(おそらくはゼンネルトによる批判を通じて)、ヘンリー・モアとラルフ・カドワースというケンブリッジプラトン主義者たちの哲学の核を形成することとなった。彼らによれば、plastic facultyというのはいわば神の道具として働き、世界全体の秩序を保証するものだった。スカリゲルも同じようにplastic facultyが神の指令のもとで身体を形成することで世界を秩序づけると考えた。しかし彼は世界への神の関与というのは、世界の最初に形相を創造し、それらにその後の秩序を生み出すために必要な指令を与えることだとみなした。これは神的能動原理はカドワースの想定とは反対にdiffusiveな性質は持たないことを意味した。むしろそれは諸々の形相によって厳密な形で個別化されているということを意味した。つまるところ、スカリゲルの考える世界というのは形相の活動の総体であり、その形相とは神に由来する能動原理をself-containedな形で保持するものであった。「霊魂は自分の家を建てる建築家である」というスカリゲルの言明は、この世界観の一部をなすものと理解されなければならない。17世紀には、個別化された能動原理という考え方は原子論と親和的なものと解釈されるようになる。しかしこの点を理解するためには彼の自然哲学の別の領域を見なければならない。それが次章の課題である。