生きている原子 Hirai, Medical Humanism and Natural Philosophy, ch. 6

  • 「ダニエル・ゼンネルトにおける生きている原子、質料形相論、自然発生」Hiro Hirai, "Daniel Sennert on Living Atoms, Hylomorphism and Spontaneous Generation, " in Medical Humanism and Natural Philosophy: Renaissance Debates on Matter, Life and the Soul (Leiden: Brill, 2011), 151–72 (ch. 6).

 昨日取り上げたStolbergと同じく生命論の観点からゼンネルトにアプローチした論考です。ゼンネルトの思想を支える根本的な信念は、形相(含む霊魂)は自己増殖するというものです。形相の起源に関するこれ以外の考え方は否定されます。質料の可能態から引き出されるとか、天から降りてくるとか、そういうことはありません。生物の生成の場合、親の霊魂が増殖し、その霊魂が最初から種子のなかに宿っていると考えないといけないとされます。また種子から体を形成するのも、なにか霊魂とは別の特殊な力と考えるべきではなくて、霊魂そのものが形成の役割を果たすと考えなければなりません。

 ゼンネルトは自己増殖理論を自然発生にも応用します。いや、というかこの理論に立てば自然発生というものは起こりません。すべての生物は親から分裂した霊魂に起源を持つからです。天の熱とかが介在する余地はない。しかしどう見ても種子でないような動物の死骸とか糞からなんで生命が生まれるのでしょう。ゼンネルトの解答は極めてシンプルです。「死骸や糞のなかに霊魂があるからだ」。え、でもたとえばハエ(自然発生の典型例)の霊魂が死骸とか糞のなかにあるってどういうことでしょう。

 このことを説明するために、ゼンネルトは霊魂の体へのやどり方というのには3種類あると言います。第一に犬なら犬の本質として霊魂が体に宿る。こうして霊魂が犬を犬たらしめます。第二にこの犬が行う様々な生命活動を可能にするようなものとして、霊魂が犬に宿る場合です。犬が歩いたり寝たりするのは、この種類の霊魂のやどり方に由来します。

 これら二つは犬が犬であり、犬として生きて行くために必須の宿り方であるのに対して、三番目の宿り方は違います。この場合、霊魂は犬の体のなかで積極的な役割は果たしません。ただ置かれている。というかこれは犬の霊魂ですらありません。ゼンネルトの言い方を借りれば、まるで容器のなかにあるように犬の霊魂とは違う霊魂が犬の体のなかに保存されているということになります。

 このような種類の霊魂の存在の仕方があるということを、ゼンネルトは化学の実験を用いて証明します。銀や金を酸につけると融解します。これら金属はあとで析出させることができることからもわかるように、たとえ酸のなかで溶けていてもその本質(形相)は目に見えないかたちで保存されているといえます。しかし銀や金がそこで溶けているところの酸はやはり酸です。銀や金ではありません。つまりそこで銀や金は酸のなかで、酸を銀にも金にもしないようなやり方で存在していることになります。同じことが金や銀の形相だけでなく、生命の霊魂にも言えるのだとゼンネルトはするわけです。

 この三番目のあり方で死骸や糞や果ては世界のあらゆる部分に何らかの霊魂があるとゼンネルトは考えていました。だからこそ一見すると種子がないところでも発生が起こるのだと。しかしなんでまたそんなふうに霊魂があらゆるところにあって、しかもそれが保存されていて、あろうことかすきあれば生成を引き起こすみたいなことができるのでしょう?

 ここでゼンネルトの原子論がきいてきます。三番目のあり方で存在している霊魂はただ霊魂として独立して存在しているのではありません。それは自らの身体に結合しているとされます。この身体は非常に微細なので見えない。これはちょうど酸に溶かされた銀や金が、見えはしないけれど銀や金として酸の中で確かに存在しているということとパラレルです。ゼンネルトによれば、この非常に微細な身体のことを原子と呼ぶことができる。このような小さな生き物としての原子が世界のいたる所にあるから、種子が見あたらないところでも自然発生は起こるし、しかもそれは霊魂の自己増殖として説明できるということになります。

 思うにゼンネルトが原子論を支持したのは、それがあらゆる発生を霊魂の自己増殖として説明することを可能にしたからでしょう。彼は天の力とか(霊魂ではない)生命原理とかを措定するのではなく、すべての生成を霊魂で説明したかったのです。霊魂というのはアリストテレスが言っているように質料の現実態なのだから、常に何らかの質料と結合して存在しているはずです。したがって種子がないようなところでも生成が起こる以上、そこには霊魂があり、しかもそれは目には見えないような質料と結合した状態にあると考えざるをえない。この問題を解消してくれたのが、生きている原子というアイディアだったのです。

 ヒロさんはもっと歴史的な語り方をしていて、この着想の源泉は1618年に出版されたリチェティの著作(ここで霊魂が粒子のかたちで隠れ潜むという考えがすでに提出されている)をゼンネルトが読んだことにあるとしています。これが同時期に化学の領域の探求から生まれた原子論への支持をより深めたのだと。いやあここは微妙なんですけど、むしろ霊魂の増殖で発生を説明したいという動機が先にあって、そっちに化学が援用されたんじゃないかと思うんですけどどうでしょうね。