シェキウスによる形成力論 Hirai, Medical Humanism and Natural Philosopy, ch. 3

  • Hiro Hirai, Medical Humanism and Natural Philosophy: Renaissance Debates on Matter, Life and the Soul (Leiden: Brill, 2011), 80–103.

 『医学人文主義と自然哲学』からヤーコブ・シェキウスを扱った第3章を読みました。ガレノスに由来する形成力という概念を正面からとりあげる『種子の形成力について』(1580年)という書物を著した人物です。そこで彼は形成力がしめる微妙な位置づけを古代の著作によりながら明確化していきます。今年出版予定の邦文論集にも本論のダイジェストが収録される予定です。

 シェキウスにとって種子や精液のなかに宿る形成力はあらゆる点で中間的な性格をもつものでした。それは四元素を構成する熱や冷といった性質のようにまったく理性を欠いているわけでもありません。でもそれは思索をめぐらす知性を有するわけでもありません。知性なしにしかし秩序・規則性を生みだすロゴスが形成力であると考えられます。知性なしに秩序を生みだせるのは、それが創造主である神の道具として機能しているからと考えられます[シンプリキオスに依拠したレオニチェノに結論としては近い]。形成力はまた生きているわけでもなく、さりとてまったく生命を欠いていると考えることもできません。もし十全な意味で生きていてしまっては、それは形成をおこなう道具ではなく、形成によって生まれる制作物そのものになってしまいます。だが同時にそれは生きているものを生みだす以上、まったく命をもたないとも考えられません(命をもつものはもたないものより高貴なので、もし命をもたないものがもつものを生みだすとすると、何かが自分より高貴なものを生みだすことになりこれは不可能)。そこでシェキウスは形成力はこの二極のあいだの中間的な位置をしめるとします[アヴェロエスが典拠?]。それは父親から与えられた作用の原理であり、現実の身体ではなく、現実の身体を生みだす運動として精液に宿っているといいます。

 形成力は天の知性のように完全に質料から分離しているわけではありません。それが活動するためにはなんらかの身体を結合する必要があります。この身体のことをシェキウスは「運搬者」と呼びます。しかし形成力は精液や種子の内部から身体を構成する以上、その運搬者は精液や種子の質料にたいして浸透可能なものでなくてはなりません。まるで光が磁力が物質を貫通するように。この特殊な身体(運搬者)をシェキウスは神的な身体といったり、アリストテレスにならって「霊魂的な熱」と呼んだりしています。人間以外の生物の場合、この運搬者に運ばれてきた形成力は、質料の可能態から霊魂を引きだしたのち、その役割を終えて消滅します。人間の場合、身体が形成力によって形成された瞬間に神によって霊魂が注入されます。この霊魂もまた特殊な運搬者によって運ばれています。人間が死んでもこの運搬者は滅びないため、人間霊魂は死後身体を離れることができます。こうして霊魂の不滅性が確保されるわけです。