パドヴァのアヴェロエス主義とアレクサンドロス主義

  • 「近年の研究からみたパドヴァアヴェロエス主義とアレクサンドロス主義」Paul Oskar Kristeller, "Paduan Averroism and Alexandrism in the Light of Recent Studies," in Kristeller, Renaissance Thought II: Papers on Humanism and the Arts (New York, Harper & Row, 1965), 109–118.

 クリステラーによる半世紀以上前の作品です。短いながらも特にイタリアルネサンスを必ずしも専門としない歴史家(哲学史家など)にとって今でも価値あることが書かれていますので、丁寧にまとめておきます。

 エルネスト・ルナンは『アヴェロエスアヴェロエス主義』(1852年;これ)という著作のなかでおよそ次のような主張を行いました。14世紀初頭から17世紀初頭にかけて、アリストテレス主義の伝統の中にアヴェロエス主義と呼びうるものがあった。アヴェロエス主義者とはアヴェロエスの注釈からその学説の基本をとった人々のことである。彼らにはより過激なライバルとして、アフロディシアスのアレクサンドロスに範をとるアレクサンドロス主義者たちがいた。これらの二つの主義の中心はパドヴァ大学であり、同大学の哲学者たちは「パドヴァ学派」を形成していた。彼らの基本主張は哲学と神学のあいだの調和ではなく対立を説くことにあらわれており、これはのちの自由思想の直接の先駆である。

 しかしルナンから100年がたち(論文の初出は1958年)このような主張はもはや妥当性を失っています。まずアヴェロエス主義について。この呼称をアヴェロエスの注釈を用いたすべての人に適用するなら中世以降のアリストテレス主義者はもれなくアヴェロエス主義者になるし、もしアヴェロエスの学説をあらゆる点で継承している人に適用するならそんな人はいないということになります。というわけでこの呼称が意味を持つためには、なにか特定の学説に賛同しているかどうかを目安にせねばなりません。

 ひとつの候補は知性単一論です。これはたしかにアヴェロエスの教えです。しかしこれへの同意をアヴェロエス主義者の指標にしてしまうと、アバノのピエトロやアレッサンドロ・アキッリニというこれまで重要なアヴェロエス主義者だとされてきた人々が定義からこぼれてしまいます。指標となりうるもう一つの学説は二重真理説です。しかしまずアヴェロエス自身信仰と哲学が別々の真理を有するとは考えていませんでした。ラテンのアリストテレス主義者にしても、多くは信仰から導かれる学説は常に正しいが、時としてそれは理性にのみに基づいたアリストテレス哲学解釈の結論とは一致しない場合があると言っていたに過ぎません。この考え方は哲学と神学の対立というよりも、哲学の自律性を重視するものです。この点で確かにそれがのちの自由思想への道を切り開いたと言えるかもしれません。しかしそれはアルベルトゥス・マグヌス、ビュリダン、ポンポナッツィによってもとられていた見方であって、とてもアヴェロエス主義の指標となりうるものではありませんでした。むしろこの哲学の自律性を強調する人々は世俗的アリストテレス主義者と呼ぶのがふさわしい。

 続いてアレクサンドロス主義。これはアヴェロエス主義に輪をかけてその実在性が危ういです(これにはルナンも気がついていました)。すべての点でアレクサンドロスにしたがっていた哲学者が歴史上一人でもいたとは思えません。アレクサンドロス主義者の典型例とみなされているポンポナッツィも『運命について』ではアレクサンドロスを批判してストア派の運命論に共鳴しています。アレクサンドロス主義の存在の根拠としてしばしば持ち出されるのは、フィチーノが1480年頃に書いた手紙です。この中で彼はすべての逍遥学派がいまやアヴェロエス主義者とアレクサンドロス主義者によって二分されていると書いています。しかし現代の研究でアレクサンドロス主義の創始者とされるポンポナッツィはこの時点で18歳であるので、フィチーノの言明をポンポナッツィ以後の16世紀の歴史を解説するために用いるわけにはいきません。またもし霊魂の可死性という一点でアレクサンドロス主義者かどうかを判定してしまえば、著名なトマス主義者であるカイエタヌスまでアレクサンドロス主義者になってしまいます。さらにポンポナッツィは霊魂の可死性についてはアレクサンドロスにしたがいながら、他の多くの点ではアヴェロエスを用いているので、そもそもルナン以来のようにアヴェロエス主義とアレクサンドロス主義を対立するかのように考えることができるか疑問です。

 最後にパドヴァ学派という単語も妥当性が危ういです。同大学にいた教授たちが持っていた思想的傾向は他大学においても共有されていました。また14世紀以前にはパドヴァでは哲学は決して盛んではなく、むしろボローニャをはじめとする他の大学においてこそ世俗的アリストテレス主義者が活躍していました。

 結論。「パドヴァアヴェロエス主義」という呼称の使用をやめて、イタリアの世俗的アリストテレス主義者という呼称を用いる。その上でパドヴァ大学の重要性を認めながらも、同時に早い時期に関してはとりわけボローニャをはじめとする他大学の貢献も視野に入れるべきである。