アジャンの異端審問

  • Vernon Hall, Jr., “Life of Julius Caesar Scaliger,” Transactions of the American Philosophical Society 40 (1950): 85–170.

 スカリゲルは異端審問にかけられたことがあります。彼が住んでいたアジャンの町には実際に改革派の教えを広める4人の学校教師がいました。しかもそのうちの一人はカルヴァンの弟子筋からカルヴァン派の教えを浸透させるために直接派遣されていました。このような人物たちがいた理由の一つは、近隣のネラックの町に新教に好意的な人物が貴族の妻として嫁いできて影響力を発揮していたからだそうです。

 この町に異端審問官が1538年3月に到着します。彼はさっそく教会で自らが異端を根絶するためにやってきたことを告げる説教を行い、それから町にいる異端者の情報を知っているものがいれば直ちにその情報を寄せ、自分がひらく法廷で証言するようにというお触れを出しました。こうしてお決まりの密告劇がはじまり、アジャンの町のあらゆる階層に異端的教えが蔓延していることが明らかになります。異端の教えを広めていた4人の教師のうち、3人は投獄され、1人は逃亡しました。町で押収された書物には、ツヴィングリ、ルター、そしてわずか2年前に出版されたばかりのカルヴァンの『神学要綱』までありました。一方、広まっているのが確認された教えは主にルター派のものでした。

 しかし奇妙なことに異端審問官は4月には町から去り、その後は彼の副官が審問を担当することになりました。ちょっと時間関係がよく分からないのですけど、その後まず最初の審問官が同性愛の疑いで逮捕されます。その7日、ないし8日後には彼の副官が同じく同性愛の罪で火刑に処されました。

 何が起こったのでしょう。どうやら異端審問官自体がもとから、ないしは審問を行ううちに改革派の考えにシンパシーをいだいてしまったというのがことの真相のようです。同性愛という嫌疑はこの本当の事態を覆い隠すためにでっち上げられたものだと考えられます。異端審問官たちの新教への接近は、彼らが審問した人物が、その犯した罪に比して非常に軽い処罰であっさり釈放されていることにあらわれています。

 スカリゲルといえば、煉獄の存在を否定したとか死に際して鐘を鳴らす必要はないとか復活のろうそくはいらないといったとかいう嫌疑で呼び出しを受けました。しかし彼の審議のためにボルドーの議会から送られてきた面々はみな彼に好意的であったこともあり、彼はとくになんの咎めを受けることはなく釈放されます。しかしこの経験は、彼にプロテスタントへ接近することへのリスクがいかに高いかを認識させました。彼が息子の教育を担当する人物に新教に関係がある人物の書いた書物を絶対に使ってはならないと厳命していたことにもこの警戒感はよくあらわれています。

 でも彼の息子は筋金入りのプロテスタントになりました(ここの冒頭の言葉を書いた人物)。