余白に記された観察

Histories of Scientific Observation

Histories of Scientific Observation

  • 作者: Lorraine Daston,Elizabeth Lunbeck
  • 出版社/メーカー: Univ of Chicago Pr
  • 発売日: 2011/02/01
  • メディア: ペーパーバック
  • 購入: 2人 クリック: 25回
  • この商品を含むブログを見る

  • Katharine Park, "Observation in the Margins, 500–1500," in Histories of Scientific Observation, ed. Lorraine Daston and Elizabeth Lunbeck (Chicago: University of Chicago Press, 2011), 15–37.

 観察を特集した論集から中世を扱った論文です。「余白にある観察」というタイトルからしてしびれる。議論の大きな枠組はexperimentum/experientiaとobservatioの区別にあります。前者の核にはトライアル・アンド・エラーがありました。誰か(自分でも他の誰かでもいい;後者が多い)が経験したり試したり、その結果知ったことが、experimentum/experientiaと呼ばれますそれはたとえば薬草の効能についての知見をもたらすものだったり、磁石の作用の仕方を確認するものだったりしました。このような意味での「経験」はアリストテレス哲学のうちに確かな場所を持ち、一つのジャンルとして確立していました。

 それに対してobservatioというのはアリストテレス哲学には確かな場所はなく、中世では実質的に天についての学問においてのみ実践されていました。observatioという言葉の核にあったのは、長きに渡る継続による知見の蓄積です。古代ローマキケロプリニウスは、たとえば船長や農夫や医師は長きに渡るobservatioから、航海や農耕や治療をうまくできるようになると述べていました。もうひとつの典型的なobservatioの分野は占いです。何か予兆が起きると、過去の「予兆→それの実現」の知見の蓄積にアクセスして、将来何が起こるかを占うことができるというものでした。ただこの最後の占いに関しては、アウグスティヌスが個人の運命を占う占星術を、航海術や農耕術と対比させて山師の営みと断罪したことにより、中世では否定的にとらえられることが多くなります。

 これと並んでobservatioにはルールを守るという意味がありました。この意味が中世では強くなり、observatioというのは多くの場合キリスト教ユダヤ教、ないしは異教の宗教的実践、とりわけ占いに関係する実践を指すようになりました。自然界についての知見の蓄積という意味合いは薄れ、唯一この意味合いが残ったのが天の領域でした。それはたとえば天の観察から個人の運命を占うことを否定するアウグスティヌス的文脈で現れます。これと並んでobservatioといわれた領域が計時でした。

 修道院ではお祈りの時間を知るために時間を正確に測らないといけません。太陽が出ていない時に時間を知らねばならない場合は、星を見ることで時間を知るということが行われました。この計時を担当する人は修道院では大変重要視されていて、たとえば11世紀後半にペトルス・ダミアンが執筆した本には、計時係が物語に没頭したり、他の人と長時間おしゃべりしたり、修道院の外の人々が何をしているかに関心を持ったりすることを許してはならないと指示されています。

 もう一つの計時は祭日の日付をいつにするかの計算です。イースターが毎年動いてそれがいつかを確定するのが大変な問題であったことはよく知られています(祭日の確定はcomptusという学問分野を形成した)。教会公式の天文表によって計算される祭日の日付(や月食・日食が来ると予想される日)の齟齬は次第に大きくなっていました。この齟齬が10世紀からはじまるイスラム圏からの先進的な天文知識と先端的な天文機器に西洋の知識人たちが強く反応した理由の一部を説明します。この先端的知の流入により、従来もっぱら宗教的目的を帯びていた計時とそれに伴う天文観測が、より自然界の理解に重点を移したものに変化します。たとえば11世紀後半のイングランド修道院次長をつとめていたヴァルヒャーは月の観測から、教会の公式の天文表を新たなもので更新するということを行いました(従来は公式天文表と観測との齟齬は超自然的な原因を持ち出して説明されることが多かった)。そもそも彼は自分の天文観測は祭日の決定という宗教的な目的を持つものではなく、医学上の有用性を探求するものだと言っています。

 しかし象徴的なことに彼の月の観測の著作にはexperientiaという表題がつけられていました。これは従来あった天文表の妥当性をトライアル・アンド・エラーによって試そうというニュアンスが含まれていました。同時代にアリストテレスの著作が流通し始めたことから、天文観測の領域においてすらexperimentumという単語がobservatioという単語を駆逐しはじめます。

 以後の天文観測はカレンダー作成との関連を薄め、医学、計時、占星術上の利用を目指して多くの場合行われるようになります。特にキリスト教徒たちは新たに流入したギリシアとアラビアの文献から、天の出来事を地上の将来の出来事の予兆としてだけでなく、その原因として解釈することを学びました。これは王侯貴族の要望に応えて一種のコンサルタントのように占星術を実践し、そのために天に目を向けるという営みをつくりだします。しかしだからといって継続的な観測というobservatioが行われるようになったわけではありません。中世の知識人たちが天に目を向けたのは、議論になっている理論的問題を解決するためだったり、天文表から予測される事象を実際と比べるためだったり、占星術を実践するためだったりといったケースに限定されていました。アラビア世界と異なり、継続的な天文観測を支援する制度的基盤がなかったラテン中世では、観測は多くは行われず、行われたとしても間欠的で、その観測は珍しい現象に集中する傾向があり、その成果は天文表のマージンに書きこまれて終わるという個人的色彩がつよいものでした。

 天文観測がこのような性質を脱して、experimentum/experientiaからobservatioとしての性格を獲得するのは、14世紀の終わりごろからです。ポイルバッハ、その弟子レギオモンタヌス、その弟子のヴァルターらは、それぞれが後進に観測成果を残しながら天文観測を続けました。特にヴァルターの観測は継続的に、規律を持って行われ、そこでは誤りの除去に努め、観測結果を常に改善することを目指されていました。従来のものとは一線を画す実践で、ティコ・ブラーへ以前では最大のデータが蓄積されました。彼らの観測成果が1544年に出版されることでobservatioの歴史は新たな段階をむかえます。それはマージンに書き留められるものから、それ自体の独立したジャンルに変貌するのです。