後期中世に学識を身につけることとはどういうことであったか ヴェルジェ『ヨーロッパ中世末期の学識者』第1章

ヨーロッパ中世末期の学識者

ヨーロッパ中世末期の学識者

  • J・ヴェルジェ『ヨーロッパ中世末期の学識者』野口洋二訳、創文社、2002年、13–60ページ。

 後期中世世界での学問のあり方を論じた書物から最初の章を読みました。基本的な叙述のうちにも鋭い指摘が含まれていて学ぶところ大です。ぜひ手にとってほしい一冊です。

 中世の学問的教養の基礎の一つはラテン語にありました。これはラテン語が広く話されていたということではまったくありません。民衆によって話されていなかったのはいうまでもなく、貴族や君主すらその多くがラテン語を解しませんでした。それでもラテン語は古代の知的遺産を伝える言語であり、学問を修めるためにはその習得は不可欠でした(辞書からしラテン語)。アリストテレスはその個々の学説が同意されていたかというよりも、むしろ推論の道具や、何かを説明するときに用いる基本的な分析カテゴリーを提供するという意味で、中世の学識者たちに一種の共通言語を提供していました。

 中世の学識にはいくつかの欠如があります。たとえば俗語は教育の場から排除されていました。歴史もまた大学の正規カリキュラムに入ることはありませんでした。科学的・技術的な学識も軽視されました。経済的知識は知的エリートが学ぶべきもののリストにははいっていませんでした。

 大学の上級学部は神学、医学部、法学部からなっていました。神学部で与えられるレベルの専門教育を受けるのは神学部のうちでもごく一部でした。さらに学位取得者が少ないのが医学部です(もちろん傑出した人物が医学者のうちにいたわけですが)。なんといっても「中世末期に、西ヨーロッパのどこでも、学識ある人はたいていが法学者であった」(48ページ)。彼らはローマ法とカノン法の原理を訴訟手続きと判決とに浸透させることで、合理的な法の精神を広めようと奮闘しました。教会はときに聖職者や修道士が法学を学ぶのを(たとえばパリで)禁止したものの、この種の禁令は一部の修道会でのみ、しかも一定期間守られたに過ぎませんでした。「14世紀に、大学の学位を取得したアヴィニヨンの枢機卿の40パーセントがローマ法を学んだ人びとであった」(46)。法学が受けた評価はイタリア、フランスの南、イベリア半島で高く、北部フランスやイングランドではそこまで高くないという違いがありました。

 中世末期の学識の特徴はそれが実利を志向していたことです。あけすけにいえば知識を修めることで貴族の一員となることが目指されていました。これは知識習得が(けっして排他的にではないにせよ)社会を律する原理の一つとなるという事象が12世紀以降拡大し続けていたことを反映しています。1400年以降現れるのは、学識が仕事から分離し、余暇や無償の観念と結びつく一方で、専門知識が純粋に機能的なものへと転化していくことでした。

 学識者たちは男性のうちのほんの一部からなっていました。彼らは当時の(こういってよければ)民衆文化にどの程度通じていたのでしょう。これについては、

学識者たちの文化の特殊な側面はそれを証言するテキストが沢山あるだけに比較的明確に捉えやすいが、公用語や専門的知識や誇示された主張に隠されていたもの、つまりこれらの学識ある人びとが大多数の同時代の人びとと共有していたものを見いだすのは、はるかに困難である…。(60ページ)

たとえば家庭で母親によってなされていた幼少期の宗教教育が、学識者たちの精神にいかに残り続けたかを彼らの著作はまったく語らないのです。