眞島利行にみる有機化学研究モデルの成立

昭和前期の科学思想史

昭和前期の科学思想史

 東京帝国大学で学び、ドイツ、イギリスに留学し、その後新設の東北帝国大学教授として有機化学の研究に携わった眞島利行の研究手法の特質と、彼の生涯を論じた論文です。昨日取り上げた岡本論文と同じく、眞島にとっても欧米の研究者と競争して勝つということが目標となっていました。そのために彼はヨーロッパの最新の手法を利用して、日本独自の天然物(ウルシの木の樹皮からであるウルシオール)を研究を行います。「研究室の条件では、何処でもやられるものを同時に始めたら必ず外国で先にやられてしまふから、彼等の入手困難なものをやるべきだと考えたからであった」と眞島は述べています。彼以後の日本の有機化学研究の基本スタイルの一つはこの最新手法で天然物を研究するというものになります。眞島の下で学んだ野副鐵男は台湾ヒノキから得られるヒノキチンの研究を行いましたし、2008年にノーベル化学賞を受賞した下村脩もまた日本の太平洋沿岸だけに生息するウミホタルの発光物質を研究対象としていました。むろんこの研究伝統は長くは続かず、1950年代以降は日本の化学研究も新たな理論や実験手法を開拓して、それにより高い評価を得るということが起こるようになりました。

 この論文のもうひとつの焦点は、眞島が残した日記から、論文からは伺えないその個人的な内面に迫るところにあります。いろいろなことが書かれているものの、一番印象的なのは彼が長女と長男をなくしていることです。特に長男の死は健康を考えて念のために受けさせた手術の歳に麻酔が失敗したことによって起こったものであったため、考えようによっては不必要な手術から子供を死なせてしまったことになります。これを機に眞島は 聖光会の教会に行くようになり、一ヶ月後に洗練を受けました。「一家皆、洗礼を受く、これより信仰によりて清き力強き生活に入りたし、大人格者神の子イエスの助けによりて聖霊の加護を祈る」と日記にはあります。彼は終生信仰を持ち続け、76歳の時の講演では自然科学の目標は「宇宙究極の大真理の発見」であり、この真理は「キリスト教でいう神と同じ」だと述べて、信仰と科学の相補性を説いていました。