粒子論の利点

Epicureanism at the Origins of Modernity

Epicureanism at the Origins of Modernity

  • Catherine Wilson, Epicureanism at the Origins of Modernity (Oxford: Clarendon Press, 2008), 39–70.

 続きです。古代の原子論はプラトンアリストテレスに批判されました。プラトンによれば物質からなる世界というのはイデア界の影のようなもので、原子論におけるように世界の根本的原理としての役割を認めることはできません。アリストテレスによればすべての存在者は質料と形相の結合体なので、質料だけが独立して存在することはありません。またすべてのものに共通の質料というものはありません。元素は四つです。

 これに対して17世紀の粒子論哲学はイデアのような超越的な原理はなく、すべては一様な物質によって構成されているとします。これは経験的に確認された命題というより、ガリレオデカルトによって思考実験や原理から演繹的に導かれたものでした。それがボイルのような実験哲学者に採用されることになります。

 この一様な物質からなる粒子によって世界がつくられている主張には当時は経験的根拠がなかったとしばしば言われていました。しかしたとえば化学の分野では粒子論に適合的な現象が確認されていました。またたとえばガラスを光や磁力は通過するのに水は通過しないのは、光や磁力が小さな粒子からなるがゆえにガラスにある穴を通過できるが、水の粒子は大きいためそれができないという解釈を可能にしました。

 粒子が不可分であるというのは古代の原子論の基本的命題でした。この点については一般的に、自然のプロセスによっては粒子というのは分割できないけれど、神にはそれが可能だという立場がとられていました。しかしこの点が議論の焦点となることはあまりなく、ライプニッツのように分割可能性と連続性の問題を哲学の核に置く17世紀の論者はまれでした。

 粒子論は形相や精気やあるいは物質の構造が形作る特殊な作用の存在を認め、それゆえ幅広い説明能力を持っていました。たいして物質とその機械的作用しか認めないという厳格な機械論哲学は説明の幅を狭めていました。デカルトは生命現象をこのような厳格な機械モデルで説明し、アリストテレス主義の哲学を全面的に棄却しようとしたものの、その説明は多くの場合受け入れられませんでした。

 しかしなぜ実験で確証することができず、しかも政治・神学的に面倒な問題を引き起こしかねない原子論・粒子論が王立協会の哲学者たちによって支持されたのでしょう。原子論、粒子論は単純であり、それは奇怪な化学哲学の説明や、長きに渡る伝統の蓄積の結果混沌となってしまったアリストテレスの哲学にはない利点を持っていました。しかし彼らにとって最も重要な利点は、原子論・粒子論が人間が自然に介入してそれを操作することで成果をあげることを正当化してくれることでした。一様な物質の配置を変えることで、黒魔術や悪霊の助けなく望む成果を得ることができるというわけです。ボイルの化学というのは究極的な物質の存在を証明するというより、もし究極的な物質があると考えれば、それを基盤にすばらしい成果をあげることができると約束するという性質を持つものだったのです。原子を積極的に操作していこうという思想は古代原子論にはない17世紀独自のものでした。