ルソーにおける化学と起源論的思考

 思想史の面白さを体現する優れた論考を読みました。機械論、生成、化合(混合)というこのブログでも繰り返しとりあげてきた問題を通じて、ジャン=ジャック・ルソーの哲学の核心に迫ろうとするものです。

 啓蒙期の哲学の目標とは、あらゆる領域についての一元論的な理論を立ち上げることでした。この目標を自然哲学の領域で達成するための有力なツールとみなされていたのが機械論哲学です。機械論哲学とは「自然の現象や物質的実体の作用を機械論的な諸原理(すなわち、自然的物体を構成する諸部分の運動、重さ、形象、配列、配置、大きさ、あるいは小ささ)によって説明する哲学」であり、「以前は粒子論哲学と呼ばれていた」(ダランベール『百科全書』「機械論的」)。

 しかし機械論による一元論的説明に容易には屈しない領域がありました。それが有機体の生成の問題です。ダランベールいわく「物体の生成とは自然が秘密にしている謎である」(『百科全書』「創造」)。この現象は機械論哲学の手に余るもので、無理をして説明を与えようとして壮大な体系を構築(デカルト)しても無駄だとダランベールは考えていました。

 この困難を解決する一つの鍵となると考えられていたのが化学の領域でした。たとえば神的な創造概念を呼び出さない無神論哲学を構築しようとしてドルバックは、自然は「本質的に多様な要素と物質を組み合わせる」だけで、「植物、動物、人間を出現させる」と考えました(『自然の体系』1770年)。この組み合わせとは化学の化合(combinaison)のことです。彼は機械論に化学を折衷することで、物質の相互作用に還元可能な形で生成を説明しようとしていたと言えます。

 ドルバックと化学の問題について何らかの議論をしていたと思われる哲学者がルソーでした。彼はデビューする以前に化学に強い関心を示しており、1747年には『化学教程』と題された著作を書き上げました。そこではのちにドルバックが展開するのとは対照的な化学観が示されています。ルソーによれば運動の法則だけから天体の運動や有機体の生成を説明することはできません。これらの現象は叡智的な存在者、すなわち神が被造物に運動と生命を与えたと考えてはじめて理解することができます。「宇宙に存在する太陽、全天体、あらゆる火、あらゆる運動は、全植物のうちのたった一握りをも、また全昆虫の内で最も卑しいものをも創り出すことはできない」。こうして機械的原理に自然現象を還元しようとする「哲学者たち」が非難されます。

 では化学は何を目指すべきか?それは原因を探求するのではなく、分析によって事物の起源に至ることを目指すべきだ、というのがルソーの意見でした。これはいわばデカルトニュートンの間を進むことで達成されると彼は考えます。デカルトのように性急に体系を構築するのでも、ニュートンのように経験的な記述を目指し説明を放棄するのでもなく、理論と観察の往復運動から「事物の真の原理」に近づくことを目指すべきとされます。

 事物の生成の真の原因は神に求め、化学の領域では観察から起源に迫るべきだ。このようなルソーの化学観が有する射程を明らかにする箇所こそ、この論文のハイライトと言えるでしょう。『不平等起源論』や『言語起源論』という彼の主要作品は、次のような方法論に支えられています。自然状態から社会状態への移行の原因は神に求める(ないしは自然人が思いついたとする)ことでその部分の説明は避け、自らの探求の営みでは同時代の博物誌や旅行記、あるいは自分の感情を手がかりに、不平等な社会状態の起源を探ることにしよう。なんというパラレル。因果論的な探求から離れ、起源の探求へと向かう思考の型が、初期の化学作品から後の主要作品にいたるまで一貫して見られるというわけです。

ディジョンアカデミーの「人間の不平等の原因は何であるか?」という原因論の問いをルソーは「不平等の起源は何であるか?」という起源論に書き換えた。この単語の書き換えは、単なるルソーの書き間違いではない。『教程』を検討してきた私たちにとっては明らかであるだろう(185頁)。

 ある思想家の初期の作品を同時代の文脈に置いて読み込むことから、そこに後年の思想の核心を見いだすという、実にインテレクチュアルヒストリーのお手本ともいえる見事な作品です。