コンスタンティヌスと十字軍

 1452年から66年に描かれたピエロ・デッラ・フランチェスカフレスコ画「聖十字架物語」には「コンスタンティヌス帝の戦い」と題された壁画があります。これは先行研究によって十字架のしるしを空に見たあとのコンスタンティヌスが戦に勝利した場面をとりあげる『黄金物語』の記述を描いたものであり、十字軍のプロパガンダとしての意味を持っていたとされてきました。しかしピエロ以前の「聖十字架物語」の図像表現ではコンスタンティヌス帝は十字架のしるしにより戦いに勝利した皇帝ではなく、教皇に西方世界の支配を委ねたことを物語る「聖シルウェステル伝」の文脈で描かれていました(「コンスタンティヌスの寄進状」)。なぜ彼の十字架による勝利が十字軍のプロパガンダとして機能しはじめたのでしょう。シスマ終了後教皇庁はローマの復興に乗り出します。そこでは古い建物の修復が行われます。「コンスタンティヌス凱旋門」の存在はコンスタンティヌスの初代キリスト教皇帝としての権威を高めました。また人文主義の勃興によりエウセビオスの『教会史』がギリシア語から読まれるようになり、それによって西方ではこれまで知られていなかったエウセビオスによるコンスタンティヌスの伝記が広まります。そこではモーセが紅海で異教徒を海に飲み込ませたように、コンスタンティヌスは十字架を見て戦いに勝利し、異教徒からローマを開放した皇帝として描かれています。異教徒からの解放を成し遂げた勝利者としてのコンスタンティヌス像は、1459年にピウス2世が十字軍を招集した際に行った説教にもあらわれています。そこで彼は1456年の十字軍によるトルコに対する勝利の「すばらしい先例」としてコンスタンティヌス帝が十字架のしるしをみて勝利した事例をあげているのです。こうしてシスマの終結によるローマ復興に伴うローマ皇帝像の刷新と、従来は知られていなかったエウセビオス『教会史』のコンスタンティヌス帝像の普及により、大帝の勝利のエピソードは十字軍のプロパガンダとして機能するようになりました。