粒子論と霊魂の不死性

Epicureanism at the Origins of Modernity

Epicureanism at the Origins of Modernity

  • Catherine Wilson, Epicureanism at the Origins of Modernity (Oxford: Clarendon Press, 2008), 106–41.

 こんどは霊魂の不死性をめぐる問題です。アリストテレスは質料と形相の両方に目を向けないといけないとして、物質的な原理しか見ないデモクリトスを批判しました。形相の一種である人間霊魂はアリストテレスによって不死であるとされているように見えます。これに対してルクレティウスは非物質的な原理はなく、動物に命を与えている霊魂も物質に還元出来ると主張しました。初期近代に世界の質料原理への関心が高まったときには、この主張と人間霊魂の不死性というキリスト教の教義との調和がはかられなくてはなりませんでした。デカルトは『省察』で人間霊魂の不死性を証明したと主張しました。しかしこれは多くの批判を招き、たとえばガッサンディデカルトの立論では人間霊魂が微細な物質からなるという可能性を否定出来ないと指摘しました(ただしガッサンディ自身もまた人間霊魂は不死だと考えていた)。デカルトの哲学は彼の意図とは反対に、人間霊魂を物質的に理解する道筋をひらいてしまったとも言えます。ライプニッツはいくつかの事例から、精神を宿した原子の存在を主張します。植物の灰から再び植物を再生させることができるという報告から、彼は生命というのは非常に微細な物質に分解されてもなお生き残るとしました。このような精神によって維持される原子がなければすべては無限に分解可能になり、分解から再生という自然のサイクルは不可能になってしまうと彼は考えました(議論の型がルクレティウスと同じ)。1660年代以降はレーウェンフックの顕微鏡観察から、水の一滴にすら多くの生命があることが分かるのだから、炎は植物を破壊するのではなく、それを微細に変形させるだけだと主張するようになります。

メモ

 窓がない云々の話が分らない。スピノザが全体的に謎。