新たな連帯の言語の創出 ブラウン『貧者を愛する者』第3章

貧者を愛する者―古代末期におけるキリスト教的慈善の誕生

貧者を愛する者―古代末期におけるキリスト教的慈善の誕生

  • ピーター・ブラウン『貧者を愛する者 古代末期におけるキリスト教的慈善の誕生』戸田聡訳、慶應義塾大学出版会、2012年、135–202ページ。

 最終章です。主張は二つあります。一つは古代末期の社会の特質を、古典古代からの現実諸条件の変化にもとめるべきではなく、むしろ現実理解の仕方の変化に求めるべきだというものです。4世紀以降のキリスト教徒による説教からは貧者があたかも激増したかのように思えます。しかし実際には一定以下の生活水準の者の数が増えたという証拠はありません。むしろ富める者からの施与の対象が明確な輪郭を持った都市市民から、茫漠な(しかし象徴的な意味を強く持つ)「貧者」へと拡張されたことから、貧者が可視化されたと考えるべきです。同じように古代末期に各地から上がる帝国への不満の声が激増することも、実際に帝国がこの時期に圧政をしくようになったことの反映と理解するべきではありません。むしろ帝国がその時期にそのような不満の声を(たとえばキリスト教司教を通じて)表明することを推奨したことが、不満の声を生みだしたのです。かといって別に帝国がこの時期に徳にあふれた統治をはじめたわけでもありません。この時期には各都市の自治に依存する伝統的統治モデルが崩れ、皇帝から一般帝国民までの垂直的な統治体制が生まれていました。そこで皇帝は分割して統治せよの原則を駆使するようなります。それぞれの統治単位が直接に間接に皇帝権力に要望を寄せることで、皇帝は超越的でありながら(あるいは超越的であるからこそ)それぞれの単位に直接的な救済を与えることができるようになりました。史料の性質を直ちに社会的現実に投げ返すことをいましめ、むしろそれを社会的認識の変化の次元でとらえることの推奨です

 もう一つの主張は、4世紀以降に起こるキリストをめぐる論争における各立場が、社会的認識の表出の諸形態として理解できるというものです。特に神と人間、皇帝と帝国民、富者と貧者が重ねられて理解されていたことが意味を持ちます。ネストリオスのように神とキリストを本性の水準で切り離してしまうことは、皇帝と人々の切り離しを意味すると理解されました。それは人々が皇帝に求めていた超越的でありながら人々に直接的な救済の手を差し伸べてくれるというイメージを損なうものでした。またこれは別の次元では、富者が貧者に救済の手を差しださない社会的描像を含意しました。古代末期の社会で「醜い」社会として認知されていたものです。たいしてイエスのうちに人性と神性の両方を認めるキュリオスの理論は、皇帝と人々、富者と貧者との関係をより人々の願望にかなう形で切りだしていました。一方キリストに神性のみを認める単性説はこのキュリロス学説の方向性をさらに徹底したものといえます。それは神そのものが十字架にかけられたと主張するものでした。神がそうであったように、皇帝も富者も一般の人々なり貧者の痛みを真に共有せねばならない。社会の両極の間で連帯が築かれねばならない。古典的ポリスの社会モデルが皇帝を頂点とした垂直的なモデルに取ってかわられたことが、市民的連帯に変わる新たな社会的凝縮性を樹立するための言語を生み出していたのです。キリスト論はそのひとつの表出でした。