領邦化する帝国 ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495–1806』#1

神聖ローマ帝国 1495‐1806 (ヨーロッパ史入門)

神聖ローマ帝国 1495‐1806 (ヨーロッパ史入門)

 神聖ローマ帝国について日本語で読むことのできる数少ない概説書から、最初の2章を読みました。長きにわたって中央ヨーロッパに存在していた神聖ローマ帝国はいくつかの特徴を持っています。要約すれば、領土が広大であり、住民が多様であり、頂点に立つとされた皇帝が選挙で選出され、その皇帝が帝国内のみならずヨーロッパ全域の支配権を主張しており、それでいながら領域内における皇帝の支配が断片的な状態にとどまっていた、となります。伝統的な歴史記述ではこのような特徴(とりわけ最後の特徴)は否定的にとらえられてきました。皇帝と領邦君主たちの二元的支配体制が、国民国家の形成をさまたげた。これがその後のフランスに対する敗北を決定づけたというのです。しかし1960年代から、このような失敗モデルを脱して、帝国の持つ領邦的な性格をそれ自体として評価しようという研究が現れます(Aretin)。新たなヒストリオグラフィでは、帝国には互いに異なり時には矛盾するような傾向性を同時に抱え込んでいたことがよく認識されるようになってきました。たとえば皇帝による一元的支配モデル、封建制団体としての多層的支配モデル、領邦が自律性を強める領邦化モデル、貴族が農民による共同体というより急進的なモデルが混在していました。

 皇帝選挙を安定させようと、1395年の金印勅書で選帝侯が選ばれ、これにより皇帝はローマの影響から脱すると当時に、選帝侯たちの特権を認める必要性が生じました。こうして以後長きにわたって続く、皇帝と諸侯(中央と地方)のバランスの基本線が定められます。その後ハプスブルク家の皇帝フリードリヒ3世(彼以後一代を除けば皇帝はすべてハプスブルク家出身)への幻滅から、帝国改造運動が起こります。帝国議会の整備、クライスという地域的区分けの設立、二つの帝国裁判所の設置がおこなわれました。帝国国政を改革しようという営みはその後カール五世統治以降も継続されます。しかしそれはイングランドやフランスのような「国家化」を帝国にもたらしはせず、政治権力がむしろ領邦化することを促しました。

 とりわけ宗教改革以後、宗派による分裂化が進みます。この傾向はアウグスブルクの和議で領邦に宗派決定権が与えられることで決定的となりました。この和議すら機能不全に陥ります。「1598年に、ルドルフは、多くの書類を署名しなまま放置するにいたった。この結果、帝国とハプスブルク家世襲領の行政は麻痺し、双方に権力の危険な空白を生み出した」(43ページ)。ある研究者によれば、このような帝国の国制的な危機が三十年戦争を招くことになりました(Ronald Asch)。戦争の結果結ばれたウェストファリア条約は、帝国をバラバラのまま欧州の受動的な外交プレイヤーとして保全するという周辺国家(と諸領邦)の思惑を具現化したもので、帝国の領邦化は維持されました。その後、台頭したプロイセンに対抗するため、ハプスブルク家が(宿敵)フランス王と同盟を結びます。こうして帝国は対フランスという凝集の原理を失います。弱小領邦は巨大領邦に吸収され、最終的にはナポレオン帝国のもと連邦制が適用され、帝国は消滅することとなりました。(続く)

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