中世思想における充満の原理の抑圧 ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』

存在の大いなる連鎖 (晶文全書)

存在の大いなる連鎖 (晶文全書)

  • アーサー・O・ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』内藤健二訳、晶文全書、1975年、70–103頁。

 思想史の古典から中世を扱う部分を読みました。善である神はあらゆる可能性を残さず現実化して最善の世界をつくった。ラブジョイが充満の原理と呼ぶこの考え方は、アウグスティヌスと偽ディオニュシオスを経由して中世世界に入りました。ダンテも『神曲』のなかでこの考え方を表明しています。しかし中世の著述家がこの原理をはっきりと支持することには危険がともないました。それは神の創造行為が先在する可能性の総体によって規定されており、それゆえ創造はあらかじめあった計画の実現に過ぎず、神の方には選択の余地はなかったという帰結をもたらすからです。

 充満の原理を支持することにともなう緊張感を明るみにだしたのがアベラールでした。彼は神が実際に創った世界よりも良い世界を創りだせたかどうかを問いました。もし創りだせたならそれは神の善性を損なうことになり、もし創りだせないなら神の自由が損なわれます。ジレンマを前にアベラールは神の善性を優先させ、充満の原理が実現された世界は最善の世界であり、それ以上良くしようがないとしました。しかしペトルス・ロンバルドゥスは『命題集』のなかで世界が最善で完全であるなら、それは被造物と創造者が等価になることを意味するとして、世界の最善性を否定しました。トマス・アクィナスの議論は充満の原理がもたらすやっかいな帰結が一流の思想家をいかに当惑させたかをよく示しています。彼はしばしば充満の原理を認めて、あらゆる可能性の系列を実現し世界に多様性を実現することが神の善性にかなうとします。しかしこの帰結が創造行為に決定論的意味合いを付与することになると見るといなや、非常に苦しい議論の筋をたどって神の自由を確保しようとしています。

 実は充満の原理を支持するかしないかという対立は神の善性をどのようにとらえるかという立場の対立でもありました。神を一なる静的な原理で、人間が観想によってなるべく近づくべき対象とみなすとき、神はこの世界から切り離されたあの世的対象となります。これにたいして神がそこからの流出によってあらゆる可能性を実現し世界に多様性をもたらすものとしてとらえられるならば(つまり充満の原理を認めるならば)、神の善性はこの世にもまた実現されていることになります。以上のようなあの世的神とこの世的神の理論のうち、中世の思想家は前者を選びました。神の豊かさのあらわれである多様な被造物の探究より、彼岸の神を静観することを選んだのです。被造物の階梯をのぼって神にいたると唱えることで自然探究を正当化することは確かに行われました。しかしこの段階的な上昇の可能性が真剣に提案されたことはなかったですし、また階梯や階段の常で登られる段(被造物)は「蹴とばされ超越される役割しかなかった」。

 西洋の思想のうちには、この世は本質的に悪であり彼岸へ向かわねばならないというあの世志向と、この世は神の善性のあらわれであり必然的な存在であるというこの世志向が同居していました。マニ教グノーシス主義は二元論によりあの世的傾向性を一貫させようと試みました。しかしグノーシス主義プロティノスに、マニ教アウグスティヌスによって拒絶されることで、二つの志向の併存が決定的なものとなったのです。中世はあの的志向が主流をしめていたものの、アベラールやアクィナスの例が示しているように「本質的にこの世的な哲学のある種の根がすくなくとも生きながらえていた」(102頁)。