超越と内在 アガンベン「王国と統治」

王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために

王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために

  • ジョルジョ・アガンベン『王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために』高桑和己訳、青土社、2010年、138–208ページ。

 第4章にある「王国と統治」と題された箇所をざっと読みました。王が国家に君臨していても統治はしていないと(言い方によっては言いあらわすことのできる)原理をめぐってどのような思索がなされてきたかが問題となっています。

 擬アリストテレスの『宇宙論』では、神はその本質としては宇宙のもっとも高い場所に住む一方で、彼の力(デュナミス)は世界中ではたらいているとされています。この理解はテルトゥリアヌスのような教父が、神による世界の支配について述べているところと共通しています。神は官僚組織を通じて世界を統治するというイメージがテルトゥリアヌスには認められるからです。ただし『宇宙論』にせよテルトゥリアヌスにせよ、神の本質とその力(つまり王と官僚装置)を完全に切り離してはいけないと考えています。切り離すと何が生じるのか?それは紀元後の新ピュタゴラス主義者であるヌメニオスが提唱したような、王としての第一の神と、その王国を統治する第二の神の分離です。この分離を突きつめると、マルキオンのように至高神にたいして悪なる創造主を対置するところまでたどりつきます。君臨すれども統治せずの原理によって神の超越性を確保するのはよいとしても、超越性を強調しすぎると世界に神がまったく内在しなくなりグノーシス主義にいたるわけです。

 超越と内在のバランスをどうとるかという問題はすでにアリストテレス形而上学』第12巻第10章にあらわれています。そこでアリストテレスは世界における善性のあり方というのは、世界から切り離された第一の不動の動者にあるのか。それとも世界の事物がつくりだす秩序にあるのかという問いを立てています。彼の答えは両方にあるというものでした。これが中世哲学において神と世界の関係を論じる基礎理論となります。たとえばトマス・アクィナスをみると、事物がつくりだす秩序というのは単一の目的である神に依存する一方で、世界が神に依存しているということは世界に内在的に見られる秩序からしかわからないとされます。超越と内在がここでは互いが互いを支えあっているわけです。

 神と秩序との関係をより詰めて考える理論がアウグスティヌスにみられます。彼によれば、被造物は神ではありません。ではこの被造物の配置の原理である秩序はどうでしょう。これは被造物自体ではなさそうです。しかしだからといって神自体を秩序の尺度とすることもできません。残された道は神の本質ではなく神の働きとして秩序を理解することとなります。こうして王による統治の実践として事物の世界におけるあり方が理解されることになります。ではこの統治実践のあり方を神が変更することは可能なのか?この種の問いが中世後期以降の権力論を形づくっていきます。