- 作者: ヨハン・ホイジンガ,里見元一郎
- 出版社/メーカー: 東海大学出版会
- 発売日: 1978/09
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『中世の秋』で知られるホイジンガが1920年に発表したルネサンス論を読みました。やはりこの人は尋常ではなく、すぐれた記述が随所に認められます。目をみはるようなすばらしい文章表現を楽しむこともできます。
芸術と学芸が再生した幸福な時代を自分たちは生きているとヴァッラは『ラテン語の典雅さについて』で語っていました。この再生を特定の時代の出来事としてはっきりと認識した最初の人がヴァザーリです。彼はコンスタンティヌス大帝の時代から堕落していた芸術が、古代にならって自然を模倣するようになったチマブーエとジョットの時代から再生を開始し、ミケランジェロでの完成に到ったと論じています。文化再生の理念は18世紀に再び大きくとりあげられるようになります。ヴォルテールはメディチ家がフィレンツェを支配する幸福な時代には、富と自由が天才を輩出させ野蛮状態からの脱出が行われつつあったとしています。
ルネサンス概念が単なる歴史研究のための概念ではなくて、一つの人生観となったのはミシュレとブルクハルトの手になります。ミシュレにとってルネサンスとは16世紀であり、そこで世界と人間の発見がなされました。ブルクハルトのルネサンスとは15世紀のイタリアであり、そこで起こった世俗的個人主義を彼はたたえました。古代の再生というのはこの個人主義の表現手段に過ぎません。こうなると個人主義が認められる中世の現象のすべてにルネサンスの萌芽を見ざるをえなくなります。実際、ゲプハルトとトーデはフィオーレのヨアキムやアッシジのフランチェスコにルネサンスのはじまりをみました。美術史家のルイ・クラジョはリアリズムをルネサンスの証しとみて、ヤン・ファン・アイクの作品にルネサンス精神を認めました。ベルギーのフィーレンス・ゲベールが『北方ルネサンス』(1905年)を出版したとき、ルネサンスと古典研究の再興は切り離されています。ドイツのカール・ノイマンは古典の模倣はルネサンスの個人主義を阻害する要素とすらみなしました。
では現状でルネサンスをどう理解するべきか。まずルネサンスの世俗的(異教的)性格はあまりに強調されすぎてきたといえます。ルネサンス精神を体現するとみなされる人物の多くにとって信仰への疑義はありませんでした。この点でルネサンスと宗教改革とのあいだの亀裂は大きくありません。むしろ双方とも中世に発する「再生による救済を」という願望を共有していたといえます。フィオーレのヨアキムとアッシジのフランチェスコはキリスト教世界の改新への期待を新生や革新という言葉に託しました。ダンテはこの新生の観念を政治的で文化的な意味に拡張しています。この新生の象徴がダンテとペトラルカにとってはローマとなります。芸術、科学、生活の変化が意識されるようになったときに、それを再生の理念のもとに理解する準備がこうして整えられました。再生、新生という言葉の二重性(宗教的な意味と古代ローマの復興という意味)は、宗教改革者と人文主義者がともにこれらの言葉を合言葉に活動することを可能にしました。
中世とルネサンス、ルネサンスと近代の関係を、厳密で単純な基準によって切り分ける事のできる時代区分とみなすことはできません。ルネサンス的個人主義、中世的形式主義と擬人観、真理探究の仕方、現世蔑視、楽天主義、身分観、忠誠観、名誉観等々のどの視点をとってもルネサンスをはっきりと規定することはできません。
ルネサンスが中世文化に対立するものとは言えないし、また、決して中世と近代の間を分ける境界地帯だともいえない。西洋諸民族の精神文化財の古いか新しいかを決める本質的境界線は、そのいくつかが中世とルネサンスの間を走り、他のいくつかはルネサンスと17世紀の間を通り、わずかないくつかがルネサンス自体の中を抜けているかと思えば、2, 3のものではすでに13世紀をとおったり、あるいはやっと18世紀をつらぬいたりしている。
文化要素の転回と動揺、移行と混淆、これがルネサンス像の中でひしめいているものだ。一つの公式で表現されうるような精神の無条件の統一性を求める人は、どんな言葉を使ってもルネサンスを理解出来ないだろう。なんといってもまずルネサンスをその錯綜複雑性において、異質混合の中で、対立性を考えて把握するよう、また設定した問題に複数主義的取り扱いをするよう、心掛けるべきだ(235ページ)。
ときた少しあとに「即ちルネサンスはロマンス民族精神の勝利の一つである」(236ページ)とくるのですけど、ホイジンガ先生、これはいったい…。