ルネサンス文化の担い手としてのオスマン帝国 ブロトン『はじめてわかる ルネサンス』#1

はじめてわかる ルネサンス (ちくま学芸文庫)

はじめてわかる ルネサンス (ちくま学芸文庫)

 Oxford Very Short Introductionシリーズの『ルネサンス』の巻の翻訳が出たので前半部を読む。2006年に出された最新の概説書なだけあり、これまでのルネサンス論にはない視点からの記述がみられる。その最たるものが、第1章「世界規模のルネサンス」の記述である。ルネサンスという言葉を人口に膾炙させた立役者であるブルクハルトは、それをなによりもイタリアで起きた現象とみなした。この見立てへの批判が行われるようになってひさしい。中世とは異なる時代がはじまったのは、イタリアだけでなく北方でもそうであったというのだ。だが著者はこの段階にとどまることなく、ルネサンスの記述に含まれるべき範囲をさらに拡張する。ルネサンスを東方とのつながりのうちで見ようとするのだ。オスマン帝国の扱いが象徴的である。じゅうらいのルネサンス論のうちではこの帝国のうち、コンスタンティノープルを陥落させ、ヨーロッパに脅威をあたえ続けた国としての側面に焦点があてられてきた。文化史上の記述でも、コンスタンティノープルの陥落により亡命ギリシア人が多くイタリアに訪れるようになり、古代ギリシア文化の復興を加速させたという事象があげられるにとどまっていた。しかし著者はむしろ次のようにいう。「ビザンティン帝国の都がオスマン帝国の手中に落ちたことは、国際的政治力学の変動の予兆にほかならなかった。それは、オスマン帝国がヨーロッパにおいて巨大な勢力となり、ルネサンスのその後の芸術と文化の大きな担い手となることを世に知らしめるものだった」(62ページ)。ルネサンス芸術と文化の担い手としてのオスマン帝国。これはおおくの人に意外に響くのではないだろうか。だが著者によれば、「ルネサンスが古典的な思想の再生を意味するものならば、[スルタンの]メフメトこそその強力な推進者であった」(63ページ)。彼はギリシア語、アラビア語ヘブライ語の大量の写本を収集していた。古典の作品を日々読み聞かせていた。彼とその後継者のスレイマンは、壮麗な宮廷やモスクを建築し、それがヨーロッパのたとえばサン・ピエトロ大聖堂再建計画の手本となった。ここからわかるように、15世紀、16世紀のヨーロッパ文化を語ろうとするならば、オスマン帝国は単なる脅威としてではなく、むしろときに援助者として、ときに競争相手として、共通の文化を育んだプレイヤーとみなさねばならない。19世紀帝国主義の時代に根をもつヨーロッパ中心主義の克服がとなえられ(この時期にブルクハルトの書物は出されたのだった)、グローバル・ヒストリーや接続された歴史のプログラムが提示されている現状にふさわしい歴史記述であるといえる。