- 作者: 富松保文
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2012/06/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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アリストテレスの形而上学を扱う新刊書の序章と第1章を読みました。丁寧な説明が実にすばらしい。たとえば霊魂が「可能的に生命をもつ自然的物体の形相」であるとか、「可能的に生命を持つ自然的物体の第一の現実態」であるとかいう言葉遣いの意味を知りたければまずこの本を読みましょう。
プラトンが『ソピステス』で述べているように、何が本当にあるのかという問いをめぐる二つの対立する陣営がありました。一つは私たちがしっかりと触れることができるものこそが「ある」とする立場です。もうひとつの立場は、目に見えない世界にあるなんらか非物体的なものこそあるのだとします。プラトンの場合、この後者の非物体的なものがイデアとなります。私たちが触れることのできる現れは移ろいゆく不安定なもので、そんなものは真にあるとは言えない。ほんとうにあるのはその現れの背後にあるイデアだ。何がほんとうにあるののか。この本当にあるものはギリシア語でウーシアと表現されています。このウーシアをめぐる争いのことをプラトンはギリシア神話にちなんで「神々と巨人族の戦い」と呼びました。
アリストテレスは人は存在(「ある」ということ)を問いから出発して、ウーシアへの問いに帰着するのだと述べました。「ある」というのがどういうことかを考えると、もっとも本来的な意味で「ある」もの(これがウーシア)とは何なのかという問いへと人は導かれるということです。
アリストテレスは何が本当に「ある」のか(なにがウーシアなのか)について、四つの考え方があると言います。一つにはこの世界にある個物こそがまさに「ある」という考え方です。たとえばそこの火とかそこの犬とかです。第二にしかし、そこの犬を犬たらしめ、またその犬があるということの原因となっているものこそほんとうに「ある」と言えるのではないかと考えられます。これは犬のような生物の場合は、犬の霊魂になります。いやだが第三に、この犬をこの犬に限定している面とか線とかこそがほんとうにあるのではないか。なぜなら面や線がなくなれば、個々のものをそれぞれ区別している境界がなくなってしまうから。こう考える人々はまた数こそが真に「ある」ものだと想定しているとアリストテレスは言います。最後に第四に「それは何であるか」と問われたときに、その答えとなるものこそが真に「ある」とも考えることができるとアリストテレスは言います。