アリストテレス主義の歴史 Lohr, "Aristotelianism"

Handbook of Metaphysics and Ontology (Analytica (Philosophia Verlag).)

Handbook of Metaphysics and Ontology (Analytica (Philosophia Verlag).)

  • Charles H. Lohr, "Aristotelianism," in Handbook of Metaphysics and Ontology, ed. Hans Burkhardt and Barry Smith, 2 vols. (Munich: Philosophia, 1991), 1:40–50.

 アリストテレス主義の歴史を総覧した論考を読みました。アリストテレスの当初の後継者たちは、師が目指していた共同調査に基づく経験的な学問を推し進めていました。しかし1世紀に入ると数学、天文学、地理学といった諸学が急速に発達し、そのなかでアリストテレスの哲学は諸学を体系化するために利用されるようになります(ガレノス、プトレマイオスアフロディシアスのアレクサンドロス)。

 三世紀に入って新プラトン主義のもとでアリストテレスプラトンの調和が模索される中、プロティノスポルフィリオスは一者からの流出スキームとアリストテレスの学説を調和させようという形而上学的方向性を模索しました。これにたいしてアレクサンドリアに拠点をおく諸学者たちは、数学と自然哲学に関心を寄せてアリストテレスを解釈することになります。

 ビザンツにもこのアレクサンドリア流のアリストテレス解釈が受け継がれたものの、そこではアリストテレスへの関心は論理学に限定されており、形而上学や自然哲学が大きく取り上げられることはありませんでした。アラビア語圏ではアリストテレスの哲学は諸学の源泉とみなされ、彼の学説をもとに知を百科全書的に整理することが行われました。ただし哲学自体は外来の学問として、一部の(とりわけ医学に携わる)エリートによっておこなわれる比較的周縁的な領域にとどまりました。

 ラテン世界では『分析論後書』に基づいて、信仰箇条という疑い得ない公理から、論証科学として神学を打ちたてようとする努力がなされます。しかしこのような努力にもかかわらず、神学とその他のとりわけ自然哲学との分野との分離は中世後期に入るにつれて徐々に進展しました。

 ルネサンス期に入ると、なおアリストテレスキリスト教の調和を目指す北方のキリスト教アリストテレス主義と、イタリアを中心にするより世俗的なアリストテレスが衝突し、そこから多様なアリストテレス主義が誕生するにいたりました。この中であらたにアリストテレス的な枠組のうちで、キリスト教の教えを正当化するために、形而上学の再定位がなされます。形而上学を一般的に存在の学として解釈することで、諸学を統御する役割を形而上学にあてがおうとする試みがイベリア半島ではなされました。一方、自然神学が重視されたプロテスタントの領域では、神や霊的存在を扱う自然神学と、存在を一般的に扱う形而上学(そして存在論)が区別されることになります。

 ルネサンス期以降アリストテレス主義が多様化し、さらにアリストテレスの科学の実践的な側面に関心が寄せられるようになったことは、最終的にアリストテレス主義自体に終止符をうつことになりました。科学革命は何が科学であるのかということについての理論にしても、諸学の百科全書にしても、まったくたらしいものを要求していたのです。