グローバル・ヒストリーにおける発散モデル クロスリー『グローバル・ヒストリーとは何か』#1

グローバル・ヒストリーとは何か

グローバル・ヒストリーとは何か

 グローバル・ヒストリーの理論と方法についての最新の概説書が訳出されたので、さっそく最初の2章を読みました。グローバル・ヒストリーというのは何も近年の発明ではありません。それは非常に古くからありました。ある人間の集団が自分たちの起源を物語るとき、そこではたいていどのようにして人間が生まれ(モンゴル人は自分たちは父である狼と母である雌鹿の子孫だと考えた)、そうして生まれたはじまりの人間から自分たちの集団がどのように分岐したか(そして別の集団はどうなったのか)が語られました。

 紀元後4世紀から紀元後4世紀までのあいだに広大な領土を獲得するにいたった古代の諸帝国では、歴史はそれまでにもまして文字で書き残されることになりました。しかし歴史家たちの関心は多くの場合、優越する自分たちの文明の周辺にある劣った諸文明をカタログ化することに向かっており、それら他文明と自らが属する帝国との交流を歴史的なナラティブとして記述することはありませんでした。むしろそれら大帝国崩壊後に成立した諸国家が、自らの正統性を確保するために、(系譜を作成[捏造]するなどして)文化・文明横断的な歴史を紡ぎ出しはじめます。それ以後の歴史家でグローバル・ヒストリーに巨大な遺産を残したのが、イブン・バットゥータ(1304–77?)でした。彼は世界を商取引や文化上の交渉、人間の移動、宗教の共有やその伝播によって互いに結び付けられたものとして理解していました。これこそグローバル・ヒストリーの基本的理念の一つです。

 グローバルな物語を語った人々は一つのモデルを共有していました。それは人類が単一の起源から拡散・発散していったというモデルです。このような考え方は初期近代にイエズス会士たちによって支持され、19世紀の歴史言語学における「インド・ヨーロッパ語族」仮説の基礎には文化の単一起源説がありました。19世紀末から20世紀初頭にかけては、幾人もの世界史家が文明の起源を例えばエジプトにおきました。このエジプト、及びその後継としてのギリシア、ローマ、ヨーロッパという考え方にはたとえばジョゼフ・ニーダムが挑戦しましたし、近年の遺伝学の研究は人間の交流と文化・技術の伝播が相互に独立に生じうることを明らかにしました(ブリテンでは度重なる征服が文化的政治的に多大な影響を及ぼしたものの住民の遺伝構成はほぼ変化していない。一方中国では文化的連続性のなかで遺伝的な第変動が見られる)。それでも人類が東アフリカという単一の起源から拡散したということは事実であり、それゆえ伝播モデルを修正し洗練を加えながら用い続けることを歴史家は求められているのです。