ピレンヌテーゼの片翼 ブラウン「「中心と周縁」再考」

古代から中世へ (YAMAKAWA LECTURES)

古代から中世へ (YAMAKAWA LECTURES)

  • ピーター・ブラウン『古代から中世へ』後藤篤子編訳、山川出版社、2006年、71–94ページ。

 ブラウンの講演集から「「中心と周縁」再考 ポスト帝国期西ヨーロッパにおける文化伝播モデル」と題された章を読みました。ピレンヌの『マホメットシャルルマーニュ』は、地中海を結節点に諸都市間で行われる交易と、キリスト教を中心とする文化というローマの遺産が、西ローマが滅びてもなお存続したというテーゼを打ち出しました。この存続が途切れるのは、イスラム帝国による地中海の征服が東方との地中海交易を衰退させた7世紀後半です。このとらえ方は、地中海という中心がその周縁をまとめる役割を果たしている時代が続く限り古代の社会経済構造と文化構造の双方が維持され、最終的に周縁が中心を凌駕することでこの構造が絶たれるというものです。そこでは文化の伝播もまた地中海の周りの中心から周縁へと伝播するものと考えられました。

 しかし現在ではピレンヌのテーゼの一方の柱である、700年頃にいたるまでの都市と交易の存続という主張は否定されています。400年以降都市と交易網は顕著に衰退しました。すると残るのは文化の継続性というもう一方のピレンヌテーゼの柱です。しかしなぜ社会的・経済的構造は変化したのに、文化は継続したのか。マルクス主義風に言えば、下部構造が変化してなお同一の上部構造が存続したのはなぜか。

 都市的経済がなくとも古代以来の文化的伝統を生かし続けたのは、村の教会や修道院を中継点としてネットワークを築いた教会文化のあり方に見いだせます。地方のキリスト者たちは、遠方から聖遺物を集め、遠方都市をモデルとした建築物を建て、古代ローマにルーツをもつ知識を体系化して摂取しました。この時彼らは、自分たちは世界規模で拡散しているキリスト教文化というマクロコスモスを、自分たちのいる地域にミクロコスモスとして移植しているのだと考えていました。たとえ経済的・社会的な意味での実質的な中心はなくなっていたとしても、彼らは理念的な普遍的キリスト教世界というマクロな中心を、ミクロな自分たちの領域に再現しようとしていたと言えます。この意味で、古代末期の文化の伝播というのは、中心から周縁への放射状の伝播というよりは、遍在する理念的な「中心」を各「周縁」がそれぞれの方法で集めるという、いわば「拡散した単一の銀河系内に存在する数々の星団の連合体」の様相を呈していました。この新たな文化の伝播モデルを捉えることで、400年以降も文化的な継続性が可能であったという事象を理解することができます。

 中世初期においては、このような大いなる構造に自らが嵌めこまれているという意識は、社会経済的要因も持っていました。西ヨーロッパでは農業生産力が極めて弱かったために、エリート層が自らを富ませるためには余剰生産物の取り立てではなく、戦争による支配地域の拡大を目指さねばなりませんでした。この拡張を正当化する帝国のロジックが理念が多用されます。よって中世初期は「諸帝国の亡霊に支配された世界」でした。

 しかし起源1000年以降、農民層を統制し、封建制を確立し、余剰生産物を取り立てることが可能となると、エリート層が豊かになるため支配領域を拡大する必要はなくなりました。「帝国を必要としない」世界が訪れたのです。以後のヨーロッパの拡大は、特許状を持つ都市、大学、修道院組織という北西部にあったいくつかの基本モジュールが複製されるという過程を経て進むようになります。こうしてマクロコスモスのなかのミクロコスモスという意識が薄れたときが古代末期と中世初期の終わりだったのです。

メモ

 文化の伝播なり保存を考えるとき、中心が理念レベルで観念され、そこへ数多くの周縁が手を伸ばすというモデルを設定してみることの必要性。このモデル、ルネサンスの言い換えだ。

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