戦国期における応報思想の構築 折井「『ひですの経』の「アニマ論」が意味するもの」

キリスト教と日本の深層

キリスト教と日本の深層

 キリシタン文書の文献学的な検討から、当時の時代状況かんする射程の長い議論を導き出す論文を読みました。浄土真宗の教えは基本的に他力信仰です。救いというのは人間の選択にではなく、仏の側にもっぱらかかっているとされます。しかし15世紀に蓮如が著した著作には、念仏を唱えることが仏の世界の側への祈願請求となるという理論が現れています。これは来世に現世での行いに応じた応報がありうるという考え方が、戦国の混乱期に求心力をもったことの反映だと解釈できます。一方、来日したヨーロッパ人宣教師も自らの布教の要に位置するものとして、来世における救いの問題を見出しました。彼らの判断では、日本の仏僧たちというのは霊魂の救済を表面的には説きながら、実際には来世もなくすべてはこの世で尽きると信じている論理的破綻者でした。これは人間のみならず山川草木も救済されるという日本の思想的土壌において、現世での行いに応じた来世という観念が馴染みにくかったということを、仏僧側の論理的な破綻として告発したものと言えます。

 このようなことを前提として、1611年に出された『ひですの教』を読むならば、宣教師側の布教戦略をそこにうかがうことができます。『ひですの教』はドミニコ会士ルイス・デ・グラナダの『信徒信条入門』(1583年)の第一巻の翻訳です。しかしこの底本と日本語版とには異同が認められます。霊魂論(アニマ論)の部分に関しては、聖書的伝統に根ざす論証が省かれ、知性認識に関する専門的議論から、人間のアニマの知性的部分は意志を持って認識を行う霊的(すぴりつある)な存在であり、霊的であるがゆえに不滅なのだという結論に向かっていきます。この議論の最後は道徳的な議論となっています。この世で善人がほめたたえられず悪人が罰せられないのは神(でうす)の敷いた法が善でないからか。いや違う。「御憲法の善徳に不足なからんが為にハ現世の賞罰なしというふとも、来世にて是を行ひ給うべし」。人間は自らの意志によって善行も悪行もなすことができる。その賞罰は必ずあり、それは来世にある。この応報が達せられるためにも霊魂は不滅でなくてはならないというわけです。この立論は仏僧の側からの反論を受けました。人間の霊魂に悪の芽を与えて、悪行に応じて地獄に落とすでうすとは何たる存在か。でうすと霊魂の不滅を措定するよりも、「草木国土則成仏」、つまり万物は成仏すると考える方が理にかなっているというのです。このように人間に罰を与えるでうすという神義論上の問題を抱えていたものの、『ひですの教』の霊魂論は、善き人間が報われることを保証するような戦国混乱期に求められていた教えを提供するものであったのです。