古代の発生論と技術モデル Henry, "Embryological Models in Ancient Philosophy" #1

 アフロディシアスのアレクサンドロス、シンプリキオス、アリストテレスの発生論を(この順)に取り上げた論文を読みました。重要な論考です。ここではアレクサンドロスとシンプリキオスの理論を解説する前半部をまとめます。発生のときに胚が見せる自己組織化という現象は古代の哲学者たちにとって謎めいたものでした。そこで彼らは、特定の技術をモデルに発生を理解しようとします。アリストテレスは『動物運動論』第7章で、動物の運動を自動人間の運動をモデルに解説しています。

さて、自動人形が動くのは、小さな運動が生じたからであって、つまり、巻いた糸がほどけて、木製の部品が互いにぶつかり合ってであるし、おもちゃの車もそうだ。(中略)それらのように動物も動くのである。というのは、動物は、そのような諸々の道具、つまり、諸々の腱や、骨からなる自然物をもっているのであって、骨は先の自動人形の場合の木製の部品や金具であり、腱は、ほどけてゆるむと自動人形が動くところの巻いた糸のようなものであるから。(坂下浩司訳)

このアナロジーのポイントは、自動人間も動物と同じく内部のギアの働きによって動くという点にあります。

 運動についての自動人形モデルを発生にも拡張したのがアレクサンドロスです。アリストテレスは形相のことをモデル(パラデイグマ)と呼びます。アレクサンドロスはこのモデルはプラトンが想定するイデアのような現実世界から離れたものではなく、質料のうちに可能的にあるものだととらえます。自然の過程はこの形相の獲得を目指して生じます。ただし技術者が生み出すものを心に浮かべながら制作するのと異なり、自然はなんらの選択も計算も行わず、目標である形相に到達します。この意味で自然は「非理性的な力」です。しかし思考しない非理性的な力がなぜ特定の目標に到達できるのか。発生の事例に関してこの問いに答えるために有効なモデルとなるのが自動人形でした。巻いた糸がほどけるとギアAが動き、そのギアAがBを動かし…という自動人形と同じく、精液の月経血への働きかけがある状態Aを生み出し、その状態Aが状態Bを生み出し…というわけです。自動的な作用の連続を発生にも認めることで、非理性的ながらも特定の形相を現実態化する自然の働きが説明されます。

 シンプリキオスはアレクサンドロスを批判します。批判はアレクサンドロスの理論では発生を連続的かつ統一的な過程として理解できないという点に収斂します。麦の発生を考えましょう。根が茎を生み出し、茎が葉を生み出すと考えることは、発生過程を複数の(しかも非連続的な)発生の集合にしてしまいます。しかし麦の発生というためには、麦の本性(自然)がその全過程に関わっていなければなりません。ではどう考えるべきか。ここでシンプリキオスは人形のモデルを導入します。ただしその人形はアレクサンドロスが想定するものとは違います。最初のコードが引き起こす運動が内部のギアを順々に伝わることで動くのではなく、一つのマスターコードの運動が全部位を直接的に動かすような人形です(一本のヒモを引くと四肢のすべてが同時に動く人形を考えよ)。同じように父親は発生の全過程にわたり直接的に月経血に働きかけることで子孫を形成します。この働きかけが子孫の形成に帰結するのは、月経血がひとたび働きかけると子孫へと変化するような性質(本性・自然)を有しているからです。まるで人形がひとたびマスターコードを引かれると所定の動きをするように。ここでシンプリキオスは発生の過程には選択や思考は介在しないというアレクサンドロスの考えを引き継いでいます。しかし彼はそこにアレクサンドロスには見受けられない理論を導入します。人形の仕組みの背後にはその設計者がいるように、月経血の本性(自然)の背後にもその設計者がいるというのです。この設計者は神であり、彼が子孫を生み出すようなかたちで自然にプログラム(ロゴス)を与えたとされます。ロゴスたる自然は発生の副次的な責任者であり、主要な責任者である父親とは区別されるとシンプリキオスは言います。ちょうど人形の仕組みがその動きの副次的な責任者であり、主要な責任者はマスターコードの運動であるのと同じように。