教父とエピクロス

The Epicurean Tradition

The Epicurean Tradition

  • Howard Jones, The Epicurean Tradition (London: Routledge, 1989), 94–116.

 エピクロス哲学の通史からキリスト教教父の反応を扱った章を読みました。エピクロスの哲学はキリスト教の教義とあいいれない要素を数多く含んでいました。その物質主義的世界観には摂理が入りこむ余地はありません。それゆえ神が人間に配慮するということもなくなります。霊魂も物質であるので死すべきものとなります。倫理的には快楽主義の立場に立ちます。これらの対立点がある以上、エピクロス哲学に対する教父たちの態度が概して否定的であったのも納得のいくところです。特に批判の的となったのはエピクロスによる摂理の否定です。これは神が人間に特段の配慮をしているというキリスト教の大前提と衝突する考え方でした。これに霊魂の可死を認めるエピクロスの学説が加わることで、復活と来世の教義が危機に陥ります。ここから来世がないならば現世での行いへの処罰もなく、それゆえ倫理的放銃をエピクロス主義は招くという批判が生まれました。この帰結とエピクロスの快楽主義とが結びつけられることで、エピクロス主義は食欲と肉欲に溺れた生へと人々を導くと言われるようになります(エピキュリアン)。

 エピクロス主義者というレッテルはキリスト教内部で信者たちが互いを批判し合うさいにも用いられました。グノーシス主義者が措定する悪しき創造神はエピクロスの神と同種のものだと非難されました。アンブロシウスはヨウィニアヌスをキリスト教エピクロスと弾劾しています。

 エピクロスの哲学が好意的に言及されることもわずかながらありました。エピクロスその人については(キケロが行ったように)その人格を高く評価する教父がいました。学説面では、テルトゥリアヌスはエピクロスの感覚主義を支持しています。アレクサンドリアのクレメンスは先取観念の学説を自らの認識論に合致するものとみなしていました。ラクタンティウスは世界ははじまりを持ち(反アリストテレス)、終わりを持つ(反プラトン、反アリストテレス)ことを論じるためにエピクロスを持ち出します。より根本的な次元でキリスト教エピクロス主義の一致点が見られたのが、ギリシア・ローマの伝統宗教の拒否の局面でした。クレメンス、オリゲネス、ラクタンティウス、そして誰よりも顕著にエウセビオスがこの一致を強調しました。