神々がおく心 ドッズ『ギリシャ人と非理性』第1章

ギリシァ人と非理性

ギリシァ人と非理性

 理性の権化とされる古代ギリシア文化における非理性的要素をさぐった古典的著作です。見事な論述、深い学識、大胆な推論はあるべき学問の姿をみせてくれます。

 『イリアス』と『オデュッセイア』には、正常でない行為をなす心の状態について、それを神がもたらしたと表現する箇所が多くあります。たとえば『イリアス』冒頭のアガメムノンの逆上は、「ゼウス、モイラ、暗闇をさまようエリーニュス」がアガメムノンの「心の中に、獰猛なアーテー[狂気]を投げ入れた」から生じたと言われます。この他にも、異常な行為をその行為を引き起こす心的状態を(不特定の)神(神々、ダイモーン)が行為者に与えたことから説明する箇所があります。これらを単なる文芸上の言いまわしと考えて、叙事詩を完全に合理化してはなりません。このような言いまわしが存在すること自体が、ギリシア人の世界観の一端をかいま見せてくれるからです。非合理的な衝動を自己から切り離し外部化することで目指されていたのは、おそらくその衝動から来た行為がもたらす不名誉という「恥」を緩和するためだと考えられます(ホメロスの人物たちは共同体内での尊敬の有無を非常に重んじる)。

 衝動を説明するための神やダイモーンの呼びだしが可能になるには、二つの要因が作用していました。一つは彼らが自らの心身を多元的に理解していたことです。これによりこの分節化された自己の一部(たとえば胸)に神が働きかけることで、自分でも予想がつかない行動に自分が出るということが説明されます。

 もう一つは性格と今日では呼ばれるものを、その性格にあたる知識を持つこととして説明する傾向です。アキレウスは「獅子の如くに、凶暴なことがらを知っている」。これはソクラテスによる徳は知であるという考え方の源となるとらえ方です。これにより人が自分が知らない状態を持つようになるとき、それを神々が(知識という持ち物として)与えたのだと考えることになります。

 『イリアス』や『オデュッセイア』にあるゼウスなりアテネなりの特定の神が特定の心的状態を人に与えるという記述は、おそらくは元来ギリシア人が持っていた「異常な状態を(不定の)神に帰す」という原初的観念を、文芸化したものだと考えられます。ヘロドトスがいうごとく「詩人たちが神々に職務と技能を配分し、彼らの容姿を定めたのである」。