アルカイク期の罪の文化 ドッズ『ギリシャ人と非理性』第2章

ギリシァ人と非理性

ギリシァ人と非理性

 ホメロスの時代に続きアルカイック期のギリシアで出現するメンタリティが論じられます。この時期神々の圧倒的な力と人間の無力さが深く自覚されるようになります。過度な成功をおさめ、神々の領域に接近せんとした人間には、神の嫉みから罰が与えられる。この罰は神(とりわけゼウス)の正義の行使としてとらえられます。ホメロスにあった人間に干渉するダイモーンやアーテーは、神の罰としてとらえられ道徳化されます。だが現実にはこの世で悪をなしている者に罰があたえられていないことがあるではないか。ゼウスの正義は不完全なのか。これにたいしてはたとえある人物が罰せられなくとも、その罪はその者の子孫によってやがて償われることになるだろうという観念が生み出されました。よって汚れは世代を通して遺伝することになります。この汚れを浄化するための浄めが熱望されることになります。「神は天におり、世界はすべて狂っている」というアキレウスの観念は、宇宙的規模の正義と因果応報の構想にとってかわられたのです。

 なぜ神への恐怖と罪への不安は増大したのでしょう。6世紀の政治闘争が人間の無力さという観念を発達させたというのはありそうです。もう一つ仮説的に提示できるのは、家族制度からの説明です。この時代、家族において絶対の権力を行使できていた父の権威がゆらぎはじめます。家族の成員個々の独立性と家父長の絶対的権威のあいだに緊張がはしったのです。ここに家の長である父には従わなければならないが、しかし無意識のどこかで父への反発を望む心理的状態が生まれます。アリストファネスが構想した願望が充足される架空の島での人生の楽しみの典型は、父親を打ちのめすことでした。そしてなんといってもエディプスコンプレックスがあります。これらの状況を精神分析の枠組みで解釈すると、父への反発という承認されない(空想や夢においてしか認められない)欲望が、罪の意識を生み出したと解釈できます。この罪の意識が父として正義を行使するゼウスという観念の形成を助け、さらにはその正義の裁きから逃れるための汚れの浄めという対応策を発達させることになります。もちろんこれは仮説であり、しかもたとえ正しくとも唯一の説明とはなりえません。いずれにせよ

このアルカイク的な罪の文化から、人類が生みだした最も深い悲劇詩のいくつかが生じたのだ、ということを忘れてはならない。そのような詩を生み出した詩人は、とりわけ、アルカイク的世界観最後の偉大な代表者であるソフォクレスであった。彼は、古い宗教的な題材のもっている悲劇的な意味を、そういう題材のもともとの形である道徳化されていない残酷な形式のなかで、あますところなく展開したのである。それは神の神秘に直面した人間の無力さ、また、あらゆる人間の功業を待ちうけているアーテー[狂気、破滅]、についての圧倒的な感覚である。そうして、ソフォクレスが、これらの思想をヨーロッパ人の文化遺産の一部となしたのであった。(59–60ページ)