哲学とキリスト教のあいだの調和と対立 チャドウィク『初期キリスト教とギリシア思想』1章

  • H・チャドウィク『初期キリスト教ギリシア思想 ユスティノス、クレーメンス、オーリゲネース研究』中村坦、井谷嘉男訳、日本基督教団出版局、1983年、9–48ページ。

 ギリシア哲学と初期キリスト教の関係についての基本書の第1章を読みました。「アテナイイェルサレムとのあいだにいかなる関係があるのか」。テルトゥリアヌスはいかなる関係もないと答えました。異教哲学とキリスト教の福音とのあいだには超えられない壁があるというのです。西洋思想史に長きにわたって波紋をなげかけることになるこの問いかけは、1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒が当時の一般的知識人たちと交渉を持つようになることで生じました。当時の教養ある階層ではストア派倫理学プラトン形而上学を加えたような哲学が受けいれられていました。このような土壌のうちで、キリスト教とヘレニズムの哲学は出会います。すでにパウロの書簡のうちに単純な信仰を超えて、哲学的で高度な真理を求める人々の存在が書きこまれています(パウロは「あなたがたは、哲学やむなしいだましごとで人のとりこにされないように、気をつけなさい」と警告している)。

 2世紀以降のグノーシス主義は、教会の内部に哲学への警戒を引き起こしました。ヒッポリュトスは異端論駁書のなかで、異端者たちは哲学者の教説にしたがうことでキリスト教の信仰をけがしていると主張しました。ただしこのような反発が教会を反知性的反動一色に染め上げてしまったわけではありません。エイレナイオスはグノーシス主義は非理性的で一貫性を欠くとしてその主張をちくいち反駁しています。教会は福音を広めるために理性的な議論に参画する必要があったのです。

 キリスト教信仰とギリシア哲学との関係について最初に深い思索をめぐらせたのはユスティノスでした。彼は異教の崇拝(たとえばエジプトの動物崇拝)や神話には断固として反対しました。他方で彼はギリシア哲学とキリスト教の調和にはきわめて楽観的な態度をしめします。プラトンをはじめとするギリシアの哲学者たちは、モーセの教説から部分的な借用をしており、そのため彼らの主張のうちにはキリスト教的な真理が含まれているとユスティノスは認めました。それにそもそもすべての理性的存在には普遍的ロゴスというキリストが分け与えられているのだから、たとえ異教徒であってもすぐれた哲学者たちが真理に(部分的に)到達することは不思議ではありません。倫理においてはストア派が優れ、神の性質や世界のはじまりについてはプラトンが正しい見解を述べていると彼は主張しました。もちろんストア派の汎神論やプラトンの輪廻転生説はキリスト教の教えにかんがみてしりぞけられなくてはなりません。人間的領域にとどまる哲学が推測でしか示せないことを、キリスト教が啓示をもって確証するということも起こります。しかしそれでもなお、哲学(とりわけプラトン哲学)とキリスト教との関係はユスティノスにおいては友好的なものでした。

 ユスティノスから15年から20年ほどのちにプラトン主義者ケルソスがキリスト教批判の書を著します。ギリシア哲学を異教崇拝から切り離し、キリスト教と結びつけようとすることにケルソスは強く反発しました。ギリシア哲学と異教崇拝は不可分であり、それらとキリスト教の誤謬とのあいだには何らの関係もないというのです。確かにプラトンとイエスの教えのあいだには類似性があります。しかしこれはモーセからプラトンが学んだという事態をまったく意味せず、むしろ反対にキリスト教が異教の伝統を借用したにすぎません。イエスプラトンを読み、パウロヘラクレイトスを学んだのです。しかもその借用したものを誤解や曲解により台無しにしてしまっていることも多い。

 そもそもユダヤ教が古代の多神教の伝統のうちにモーセという過激派によって生み出された分派です。それでもユダヤ教は長きにわたる伝統がある。それに対してキリスト教は完全な新興宗教であり、それなのにすべての民族からの改宗を要求しているのです。キリスト教は理性的な考察の放棄を信徒にすすめ、理詰めで答えられない問いに直面すると神にあってはすべてが可能なのだという逃げの論法を使います。

 このような非合理性はキリスト教徒の信じる神の教義に由来します。キリスト教の教えによると、神は世界に頻繁に介入してきます。つまり神は不完全な世界を創造してしまったということになるようです。イエス受肉したというと、ではそれまで神は何をしていたのでしょう?しかもそうやってようやく動きだしたと思ったら、世界の片隅の特定の個人として登場し、しかも特定の民族にしか救いをもたらさない。このような選民思想には何らの根拠もありません。さらには世界の終わりもまた神の気まぐれによる審判によって生じるというのです。こんな気まぐれで人間的なものが神であるはずがありません。十字架に神秘的な意味を見いだしているというのもおかしな話で、もしイエスが崖から突き落とされて死んでいたらどうするのでしょう。崖を崇拝するのか?偶発的な出来事に永遠的な意味を付与しているからこのような馬鹿げたことが帰結するのです。

 ケルソスが認めるのはプラトン主義の神学であり、そこでの神は絶対的な超越性を有しています。神は選ばれた民のためになど存在しないし、そもそも人間のためにいるのではありません。それは神がイルカのためにいないのと同じことです。それは宇宙の永遠の軌道を回転し続けているだけです。このような神の超越性を重視する貴族主義的哲学思考と異教の多神教崇拝との折り合いはじつはよくなく、この点でケルソスの異教擁護は両義的なものになっています。彼はたしかに異教崇拝のなかに軽蔑すべき点があるのを感じながら、それを伝統的なものとして擁護しようとするのです。宗教的保守主義者の知識人であるケルソスにとって、伝統的なギリシアの神話と哲学とのあいだにくさびを打ち込み、後者をキリスト教のうちに取りこもうとする試みは我慢がならないものでした。理性と非理性とのあいだを架橋することはできないというのです。